あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

試される(8thアルバム《C3》#1)

なんだかわからないけど久しぶりに頭の中のことをちゃんと書いてみようという気分になったので、《試される》のこととか書こうと思います。

もともとは大学卒業間近にアルバム《光源》の考察とか言って始めたのに、全然進まないもんですね。はてなブログがサービス終了するまでにBase Ball Bearすべての曲の考察をしてみたいけど多分無理ですね。関係ないけど少し前に魔法のiらんどもサービス終了したし。試されるまでもない課題でした。

魔法のiらんどのサービス終了によって、僕の好きなマヂカルラブリー野田クリスタルのブログが見られなくなってしまうのが大変残念でした。

 

《試される》ですが、ベボベにおいて、小出祐介において、こういった視座を一つずつ後ろに下げてメタにものを捉えるタイプの観念っていつごろから持たれていたんですかね。

《抱きしめたい》のPVの終わり方で、本来のMVの映像からカメラの後ろにまわるっていう表現が使われたと思うんですけど、あのときはおそらく小出自身にも無自覚な「メタさ」だったんじゃないかなと思います。

《The CUT》では、すでに明らかに意識的な表現や観念として使われていました。その少し前の《yoakemae》のMVでも、最後に4人の演奏を見ている小出で終わるんですが、このあたりから意識がされ始めていると思います。《神々LOOKS YOU》もその感じあるけど、これもちょっと《The CUT》ほどの意識的な感じは無いように思います。

多分この「カメラの後ろ」という着想は《ほんとにあった!呪いのビデオ》シリーズから来ているんじゃないかと僕は思います。あれは「メタをやるorやらない」の検討すら押し黙らせて絶対にメタをやらない(ことにしている)ので、それがかえって「メタさ」という観念を持つことを助長させているんじゃないかと思います。(初期の数話は見たことあるけどホントに一部しか知らないので、素人の知識ですいません。稀にメタをやってしまう回もあるとは聞いてます。)そのため、「カメラの後ろ」という表現はそのMVや曲自体におもしろさを付与するための一つのフック・手法として、初期のころから小出に染みついていたんだと思います。

ただ、《The CUT》あたりから小出の内的世界だけではなくて、自身を取り巻く外に向けての歌詞が増えたことで、逆に「世間を捉える自分」への意識が強まり、自分と世間の視座の間を行ったり来たりすることが、小出がもともと持っていた「カメラの後ろ」という手法とリンクして、今やBase Ball Bearの一つの武器になっていったのではないでしょうか。

 

さて、話を《試される》に戻します。

この曲では「メタをやるorやらない」の行き来自体が表現されています。

黒髪が(黒髪が)

不安そうに

ゆれるから(ゆれるから)

原始的に心惹かれるだろ! 

上記の部分はメタを、やろうとしたりしていなかったりする中で、綺麗なあの娘の「黒髪が不安そうにゆれ」たりなんかしたらそりゃ「心惹かれ」てメタなんてやってる暇ないし主観や内的世界全開になるじゃんか、ってことですかね。

ただ、内的世界よりもメタの方が高尚だということは言っていなく、内的世界も内的世界で宇宙みたいな魅力はあるとしていると思います。どれくらい魅力があるかというと、少なくともフルアルバム1枚分くらいは。例えば1stアルバム《C》1枚分くらいは。黒髪を不安そうに揺らす彼女(She=C)には、海(Sea)や都市(City)や死を想起させるくらいのものがあります。

つまり、この部分はアルバム《C》を作っていたときのBase Ball Bearのこととも捉えられると思います。

 

そして2番では

価値観が(価値観が)

悲しそうに

ゆれるなら(ゆれるなら)

人間的に抗いたくなるだろ! 

1番が《C》であれば、この2番はもちろん《C2》ですね。

《C2》 はアルバムを通して、《The CUT》に近い着想でできています。ざっくりですが。そのメタな視座をもとに、「抗いたくなる」のも内的世界の表現と同じくらい広がりのある表現だと思います。

ちなみに、サビの締めとなる2つの歌詞

試される 試される ミステリーさ Boy Meets Girl 

試される 試される トリッキーなこの世界

も、それぞれ「内的世界や主観をやる・C」「メタや客観視をやる・C2」 で対比されていると思います。

 

と、いったように、《C》と《C2》をおさらいしつつ、その間を彷徨うような曲になっていると僕は思っています。

ただ、やはりシンプルに時間軸が《C》→《C2》→《C3》なので、やっぱり少し《C2》的な考え方が若干強い部分はあるんですかね。このあとの《C3》の曲も考えると。

で、その《C2》寄りな部分で僕の好きな歌詞がこちら

あの中の誰かも犯人だが システムを疑えよ 

仕事でも人間関係でもなんでも、システムや仕組み、上部構造を疑うのは大事だなと。

いつまでもこれができる奴でありたいですね。

で、《C》の魅力を十分に分かったうえで《C2》して《C3》していたいものです。

CITY DANCE(1stミニアルバム《GIRL FRIEND》③)

せっかくなら大ジャンプして古めの曲の考察をしてみようと思いました。

収録曲が4曲だけだし、アルバムタイトルがリード曲と同じなのでミニアルバムとしてはあまり認識されにくい《GIRL FRIEND》ですけど、1stアルバム《C》の凝縮版みたいなものだと思います。《C》の完成までの電波塔ジャケット時代はベボベもメジャーデビューしたてで東京のバンドとしてやっていくぞっていう感じで、アルバムタイトルのCというのも〈City〉〈she〉〈sea〉〈死〉とかいくつか意味が込められてますよね。

 

とかまあ色々ありますけど、今回は《CITY DANCE》。この曲を通してベボベにおける〈City〉とは何なのかを探っていきたいですけど、その前にサウンド面から。XTC要素の最も強い曲ですね。サビのメロディはまんまXTCの《Respectable Street》(1980)。

音作りもシャキシャキしたギターに隙間をうまく作るベースがまさにXTCのそれですね。なんとも粘っこくて煮え切らない、気持ちがいいようで気持ち悪い、でもクセになる湯浅ギターのフレーズも好き。

全体ではポップで馴染みやすいしっくりくるサウンドに、ドロっとした気持ち悪さを仕込む、メジャーデビュー直後のこの毒のある感じ堪らないですね。

 

歌詞もいいですよね出だしから。

空を飲み込む都市は今、桜色 空見上げてただ堪える人がいる

いくつものCのうち、この曲は曲名通り〈City〉要素が中心かなと。その都市(まち)というのは空をも飲み込む恐ろしいほど大きな流れですね。でも恐ろしさだけではなくポップな桜色で、まさに毒のある感じと親しみやすさの象徴ですよね。

これもまさにベボベにおける大きなテーマですけど、要するに〈City〉とは言い換えれば〈ポップ〉ってことなんじゃないかと思います。ということは、〈she〉&〈City〉⊂〈LOVE〉&〈POP〉ってことじゃないかと。sheだけがLOVEじゃないし、CityだけがPOPでもないと思うので、イコールではなくて、でも1つの一般項のようなものですね。こういう作品と作品との繋がりを発見できるの最高だなあ。

そしてそのポップバンドの最高峰であるXTCのフレーズの引用ですよ。天才かと。 ここでもう少し歌詞を見ていきましょう。

摩天楼の背伸び 浸みていく影法師 溺れた人魚たち 四角い青空 涙ぐんだ景色 桜色の飛沫

この並列、なんか元ネタありそうな雰囲気ありますけどちょっと僕は知識不足でして。

でも「摩天楼(東京タワー?)」や都市に飲み込まれた「四角い青空」の前に、一人ひとりの影法師(人間性の輪郭みたいなもの)は滲んで人魚は溺れ、そんな個人たちを喰らって都市は綺麗な「桜色の飛沫」を上げる、って感じですかね。

 

都市とは強大で恐ろしいシステムですけど、そんな大衆がクソだと言うわけでもなく、そこにはまた一つの美学があるわけです。これも都市とポップの共通項ですね。似たようなことを《こぼさないでshadow》の考察で書いた気がします。

空を飲み込む都市は今、桜色 染まりゆく君の中心、見届ける

そんな都市の強大さや恐ろしさと、美しさや親しみやすさがありまして、そして今ふたたび「君」という個人にフォーカスを合わせるという最後の歌詞だと思います。

 

といった具合で、《CITY DANCE》という曲を通してベボベにおける〈City〉について考えてみました。小出のいう「東京のバンドとしてやっていく」というのは、単に自分たちの戦場もしくはテリトリーを決めることだけではなく、東京という〈City〉について研究して表現する、ということなんじゃないかと思いました。

 

kodoku no synthesizer

 入院してるのにポケットwi-fiスマホが速度制限かかってYouTubeも見れずに暇なのでベボベ鑑賞ブログ書きますぅ。曲はアルバム《新呼吸》より《kodoku no synthesizer》です。

 


 1年ぶりくらいになってるけど、書くの途中でやめちゃう理由って無理にアルバム曲順で考察しようとするからだと今更ながら気づきまして。ので、その時その時で書き進められそうな曲を気ままに考察して、アルバム曲全部書ききったらまとめてレビューという流れにすることにしましたよ。その方が時期ごとによる僕の思考回路のトレンドも反映されて、それをアルバムまとめて再構成すればまた新たな発見があってナイスだなと。

 


 ちなみに入院中だと書きましたが、1週間前に肺気胸だと診断されて入院して安静にしていたものの、症状が悪くて4日後に手術を控えているという状況です。まあ手術すれば問題なく治るんですけれども。ただゴールデンウィーク丸つぶれだけど16連休で社会と切り離された生活をしてると、普段の仕事中心の生活マジあたおかですわって気持ちになって、社会復帰するの普通に嫌になりますね。そんな近況で書いてます。病室なのでスマホで。

 


  《kodoku no synthesizer》ですけれども、テーマとなっている「孤独」について、2009年発売3rdアルバム《(WHAT IS THE)LOVE & POP?》から2010年発売の3.5thアルバムを経て2011年発売4thアルバム《新呼吸》まで、継続して小出によって研究された一つの到達点のように感じますね。もちろん小出の中の「孤独」という観念は、3rd以前からもずっと作品中に組み込まれていたものでしょうけど。

 


 それ以前のベボベの「孤独」についての曲でいうと、2ndの最後の曲《気付いてほしい》とかですかね。このちょっとはみ出した所にいる自分の色々な思いを誰かに「気付いてほしい」という、孤独といってもかなり手元に近い感情のことを表現した曲ですよね。なんでしょうね、「手元に近い」という言い回しがうまく伝わるか微妙ですけど、感情に素直な表現だと言いたいわけです。つまり「孤独」というものを何か概念や体系全体ではなくて、〈環境〉だと捉えた上で、その孤独という〈環境〉の中にある自己の「気付いてほしい」という感情を曲にしているわけです。そういう意味で、その自己から見て「手元に近い」わけです。

 といった感じで、《気付いてほしい》のような「孤独」に対しての原初の思いがありーの、そこから《Stairway Generation》をはじめとする3rdアルバムで「孤独」の本格的な研究が行われる流れだと思ってます。

 


 ただまあアルバム《新呼吸》は、最終的にはポジティブなアルバムです。そんな12曲のうちキーポイントとなる10曲目がこんなにも虚しいのかと。アルバム《新呼吸》は1日の時刻が各曲に振り当てられていて、《kodoku no synthesizer》は26時です。幽霊の出る丑三つ時と言われる時間ですけど、「孤独」というのは生きていようが死んでいようが何処にでもあるものなんですかね。

壁みたいな孤独 青空みたいな孤独

沼みたいな孤独 恋人みたいな孤独

って言ってますけど、現世でも孤独は至る所にあって、恋人にすら孤独はあるものです。冷蔵庫や炊飯器のようにきちんと役割を果たして周りに認めてもらえていたとしても、究極的には「気付いてほしい」と思う気持ちが全て誰かに伝わることはなくて、コミュニケーションというのは永遠に不完全でしかないんですね。

 


 「誰かに認められること」と「孤独から解放されること」は全く別物だということだと思います。新呼吸リリース前後に小出がTwitterかインタビューか何かでこの曲の着想として「シンセサイザーで出音の周波数を上げ続けるとその音は超音波となって次第にヒトの耳には聞こえなくなるけど、確かにその音は存在している」みたいなことを言っていた記憶があります。これも同じことで、超音波はいくら強く空気を振動させても人間の耳には認めてもらえないんですよね。それだけじゃなく途中からスピーカーとかヘッドホンとかにも認めてもらえなくなるし。ってことは自分の様々な思いも同じで、どんなに頑張って伝えようとしても他者には絶対に伝わらない種類の真空みたいな部分が人間にはあるってことだと思います。

 


 真に孤独から解放されるには、人間の認知能力や表現能力では到底敵いませんね。そんな「孤独」という概念そのものを表現した曲だと思っています。孤独に対しての自己とか、その感情ではなくて、全てに通じる体系としての「孤独」があるという曲ですね。でもだからこそ孤独によって自分が絶望させられるわけでもなく、僕はむしろ「孤独を通じて人と人は繋がれる」という方向に進んで、次の《yoakemae》に続くんだなと思いました。パラドキシカルですけど。以上。

文化祭の夜

ブログに手を付けずに100日が経過してしまったのでここらでちょっと書いとこうと思ったんだよ。1か月ほど前、(LIKE A)の記事にこのブログ初めてコメントを貰ったんだよ。ありがとうございなんだよ。

 100日前の自分とは全然違う環境におるよね僕は。授業のない大学生4年(5年(4年))生という立場から社会人1年目のド下っ端という立場になり、実家から遠くはないけど一人暮らしを開始し、メガネをやめてコンタクトにし。違う環境にいれば違う悩みを抱えるようになるような、でも思考の根っこの部分は同じだったりとか。ビールが好きなのは変わらないんでビールを飲みながら書いているのだけど、職場の健康診断で尿酸値がギリギリであることを突き付けられたので飲んでるのがプリン体オフのやつに変化はしたけども。尿酸値以外はド健康なんだけどね~相変わらずメンタルがアレな点を除いては。特に社会人になってから睡眠がさらにヘタクソになったよね。朝まで通しで寝らんねえですぅ。

 みたいなこともあるけど、作品解釈の傾向にその変化は出てくるんでしょうかね。伏線回収フェチの僕のことだからきっと関係あるよ。そんな久しぶりの作品解釈は『文化祭の夜』。

 

 ベボベ的にも小出的にも、バンド結成から十数年経ってからやっと文化祭についての曲を作るというのはなかなか面白いもんじゃん。かつての青春系の感じで文化祭についての曲を作っていたらもっと主観的で感情的な曲になってただろうけど、この曲に見られるような、小出が表現したかった「趣」は無かったでしょうね。ベボベもこのときアルバム『二十九歳』リリースし終わってを三十一歳だったし、三十路の壁を超えるときはやっぱり人は何かを考えるもんなんだろうか。弱冠23歳のワタクシめが言うことじゃねえかもですけども。まあでも僕も大学生から社会人にクソ変身を遂げて環境の変化とともに色んなメンヘリネーション(最近の僕の流行語大賞で、気分が病む状態のことを指します)を巻き起こしたのと同じように、29歳と31歳の間には東京ドームにある長嶋さんのセコムの看板30個分のでかいベルリンの壁があるんでしょうね。

 基本的に人間変わらないでいたいもんじゃないすか。僕もせっかく芸術学科でお勉強してきて芸術を通して真実とかみたいな「気持ちが悪くて気持ちがいい」ヤツを追及することに価値を見出してきたけれども、社会人的には今あるものの中で流れに乗ってできる限りのことを頑張って社会的に認められるべきだという「気持ちが良すぎて気持ち悪い」ヤツを手にしようとすることは大事なことだなって。必ずしも前者が善で後者が悪というワケではなくて、後者も後者で大いに認めるべきものであることも確かで、でも今それを素直に受け入れられるようにはなれないという状況だけは確かに言えるっていうのが、今現在の僕のリアルな状況っすわ。AとCのどちらも十分に理解してはいるけど、だからといって決めきれるわけでもなく「AでもないCでもない、その狭間でモヤモヤしたBな生徒のためのクラス、B組の講師Base Ball Bearボーカルギターの小出祐介です」って感じで、さらにそのBな状況を十分に理解しているからこそ表現できるものがあったんじゃないかなって思ったよね。その一つが文化祭という世界観をメタに捉えることで表現できるその「趣」なんでございましょうね。

 

 歌詞を見ても「あのとき」「あの夜空」「あの夜風」「あの気持ちカミングバック」みたいに、三十一歳現在の小出がその世界観を思い出すという言葉遣いで、だからこその客観視と「文化祭の夜」という現象にある趣の表現でしょうね。

 

明日は何もないっていうのに

 

買い出し行かなくっていいのに

 

 みたいに、そこには三十一歳的視点では間違いだけど当時はそれすら重要なイベントだった、っていうことを理解することが「趣」ってものを感じるときの思考回路の流れなんじゃないのかなって。十七歳当時の感情的な点だけを表現するでもなく、三十一歳現在の理論的な点だけを表現するでもなく、「その両者を認めたうえで今の自分はこうです」っていうベボベ流のリアリティを感じることに成功しましょうかね。「我思う、故に我在り」言うてますけれども。

 

 僕たちB組の生徒にはそんな「趣」を存分に味わえる環境が整っているんだ。B組サイコー、サンキューBase Ball Bear。

曖してる

 この曲初めて聴いたときは新たなダンス湯浅将平曲だと思ったんですけどね。

 とか言ってしれっと書き始めようとしているけど3か月ぶりに書くって結構だ。この3か月でシューゲイザーバンドに加入して何回かライブをやって脱退してとかをしていて、ちょっとワチャワチャしていたのですけれども。

 『曖してる』の考察、カッティング&スラップベースというサウンド的な特徴が強い曲だからサウンド面の考察にしようかなと思っていたのだけど、となるとルーツを結構調べないといけなくて相当難しいから他に上手いことやりようがあればなあと思って全然進まなかったから久しぶりになってる感じですね。あと僕はこの曲、堀之内ドラムの気持ちいいスネアの音と、サビでの湯浅ギターのトレモロが好きです。まあ結局これまで通り社会学的というか哲学的というか文学的というか心理学的というか、なんとも言えない僕の変な側面からの考察をすることにしたわけですけど。久しぶりに書くからこの段落もすでに一文が長すぎて読みづらい。

 別に誰に言われてやってるわけでもないから好きな時に好きに書いたら良いのだけど、とはいっても本当に純粋な自己満のオナニー作文でもないわけですよね、ブログという形で公開している時点で。驚くべきことに検索エンジンとかからアクセスしている人間さんがいてくれているようで、「別にだから何ってわけではないけど」とか言っても、やっぱりたとえ批判的な見方であっても少なからず受け手がいてくれることは表現のやりがいとまではいかなくても前提くらいにはなるんじゃないですかね。

 とかまあ面倒なこと書きまして、『曖してる』ってこういうことですよねっていう。芸術表現って例えば単なる趣味嗜好の傾向を提示するTwitterのプロフィールみたいなものじゃないと思うし、でもそういう側面もあっていいと思うわけですね。よく言われる承認欲求だって表現のうちの立派な要素だし、それ自体を否定する人の意見はちょっと理解が難しいですね。でももちろん極端に承認欲求が前面に出すぎているのを見るとキツイと思います。しかしそういう人の表現も承認欲求だけで構成されているわけではないわけで、でもどうしてもその点に目がついてしまうということはあります。

 

 とまあ一つ上の段落で承認欲求という言葉が出てきてから3度も逆説の接続語を使いましたけれども、それでじゃあ結局何なのってところは僕には言い切れないです。こういうのを哲学では弁証法っていいますよね。ある命題に対してその否定をぶつけて両者を検討することで、より次元の高い命題を獲得できるってヤツですけれども。だから大学受験の英文解釈のようにbutやhoweverの後だけを見れば結論が得られるわけではなく、その過程の比較検討にこそ意味があるんだというのが『曖してる』という意味じゃないでしょうか。

 ここまでベボベのべの字も出てこない文章を書いてしまったけど、このアルバム『C2』、まさに弁証法で構成されていると思います。1曲目の『「それって、for 誰?」 part. 1』は商業的なコンテンツに対する批判という側面が強いものでした。でも2曲目『こぼさないでShadow』ではある意味で商業的なものも含め、後塗りのポップも肯定しました。このように相反するものを認めるというのは弁証法の基本じゃないかと思います。でも弁証法によって得られる新たな命題にもさらなる否定はぶつけられるものです。その繰り返しこそが弁証法なんですが、つまり結論なんてものは本当は出ないはずなんですね。でもあまりに結論が出なさすぎるとコミュニケーションが不可欠な世の中面倒くさいことこの上ないので、暫定的に数々の言語を用いて「喜び」とか「悲しみ」とかって言葉で表現してます。でもずっと暫定的なのも困るから、その先にある真実みたいなものにより近づくために芸術というものがあるんじゃないでしょうかね。

 理屈も魔法も禁止にして 漠然を抱きしめる

 言うてますけれども、言葉という「理屈」や「魔法」ではカバーしきれない真理のようなものは「漠然」としたものだと思います。そこを追いかけるということこそが弁証法であり、小出が言うには「終わらないPOV」なんじゃないでしょうか。

 最後に苦し紛れの歌詞引用をしたので、これで『曖してる』の考察として成立したことにしましょう。

美しいのさ

 1か月ほど前に今年一の泥酔をしまして、12時間ほど吐き続け申しました。アルコールはめちゃくちゃ弱いというわけではなく、平均より少し弱いくらいなのかと思うんですけど。それでちょうどトリキの金麦(大)1杯ごとに酔いの段階が上がっていくことを学びましたね。2杯目で既に丁度良くテンションが上がり、3杯目で話のオチを安易に下ネタに繋げるようになり、4杯目の途中で嘆きだし、4杯目を飲みきる頃には具合がかなり悪くなってたと思います。ちなみに私はビール系以外はほとんど口にしない人間だって昨日から言ってるでしょ。

 さて、暴力的に無理矢理な繋げ方をしますけど、この曲の理解にも第1段階と第2段階があるのかなと思いました。その境界は2度目のサビ終盤のこの部分。

出来るだけそばにいたいよ

そう言って、ちょっと離れて歩く

 そこまでは第1段階「弱点is美しいのさ」パート。この部分以降は第2段階「その美しさとどう付き合うか」パート。そしてここでは第2段階を表現するための第1段階と考えています。(注:後半でこのあたり撤回してます。)今回の記事はその段階に分けて考えていきます。

 

 まずは第1段階ですが、弱点を愛してしまう心理って何なんでしょうね。他者に対しても自分に対しても物に対してもだけれど。あともちろん音楽を含むアート作品に対しても。コミュ力ウルトラMAXでインスタ映えまくりみたいな人間より闇が深そうな人の方に魅力を感じたり、女の人と会話するのが満員電車の次に苦手な自分に困るのは困るんだけどそんな自分が嫌いじゃない心理だったり、所々塗装が剥げて打痕が痛々しいギターにハンパねえ愛くるしさを覚えたり、粗削りなインディーズやメジャーデビュー直後時代の作品を好きになったり。

 この心理僕は思うに、全ての価値観は「自分と相手の関係」の中に生まれるからというのが理由の一つなのではないかと思います。対象を見据える主体はどこまでいっても紛れもなく自分で、どんなに斜に構えてもどんなに俯瞰してもどんなに客観的になったつもりでも、客観的に見ていると思いこんでいる主観でしかないわけです。いい年こいて主観だけにどっぷり浸かっている人間が一番絶望的ですけど、完全な客観である神の視点を得たかのように斜に構えた冷静分析系オタクもまたキツイもんです。

 つまり人間は人や物に対する好き嫌いなどを考えるとき、「対象の能力・才能・容姿等を数値化して合計何点か」みたいな判断方法は採っていないわけです。それは神の視点による判断方法です。そうではなくて、「対象を好きになる自分」と「自分に好かれているその対象」とのバランス感が重要なんだと思います。そしてそのとき、対象の弱点や痛みについては自分の想像力が最も多くはたらくスペースなのかなと。弱点のない対象には、自分の想像力をはたらかせる余白が存在しないわけです。つまりそんな完全無欠の対象と共存しているとき、自分の存在は無になるんですね。ひとつ前の『こぼさないでShadow』の記事でも書いたんですが、社会的存在としての人間には「自己実現」という欲求があります。ここでは「自分の意志・思考・意識などを持つこと」みたいな感じになるんですかね。例えばギターについた沢山の打痕からそのギターと過ごした時間を想起するみたいなことですね。んー例を挙げるとなんか薄くなる感じがしてしまうけど。でもそのようなことを想起する、想像することは、人間が自分の存在を認めるために必要なことなのかと。

美しいのさ 何よりも 

そう言って やっぱ違うかってなる

 って言っておりますけれども。主観的な自分から弱点が魅力的に見えたり、ちょっと俯瞰して客観的な視点から「やっぱ違うかってな」ったりするってことかと。そういった弱点はもちろん「美しいのさ」と感じられるものですけど、でもやっぱり弱点は弱点なんですね。その2つの「視座」(アルバムC2全体を通してのテーマです)を行ったり来たりして人間生きているんですね。まあでも結局どんなに俯瞰していても最後は自分の視点で生きるわけですけど。繰り返しですが俯瞰だって結局自分ですから。

 そんなわけで、自分の想像力の躍動を求めて、人間は弱点を美しいと感じるのだと思います。しかし、一つここまでの話には重大な欠落があります。それは、もうどう考えてもまるで美しいとは1ミリも感じられないような種類の弱点も世の中には多いということです。例えばただただ傍若無人なだけの態度だったり、どう想像を広げて聴いたっていっこも面白いと思えない上に単純に演奏が下手なバンドとか。例えばですよ例えば。For example.そんな種類の弱点と区別して、もしくは美しいと感じていた弱点が本当にどうしようもない弱点と化さないようにして、弱点の美しさとどう付き合うかを表現しているのが第2段階です。(ここまでで1900字やっちゃって飽きてきた。ここから書いている日付が2週間ほど空きます。)

 

 で、後半を書こうと思って前半読み返してみて思ったんですけれども、この曲第1段階第2段階とかって分けるのあんまり上手くないですね。この記事の文章の導入部分から繋げるために(にしても無理矢理な繋げ方だけど)第1段階第2段階みたいな構成にしようと思ったんですけど、やっぱり無理ありますわ。ということでやめます。

 「弱点の美しさとどう付き合うかを表現しているのが第2段階」なんて面白みのないこと書きましたけど、まあその答えとして書こうとしていたことだけ書くならば、

出来るだけそばにいたいよ

そう言って、ちょっと離れて歩く

ってとこの解釈ですかね。上にも書いたんですけど「主観どっぷり」も「勘違いした客観の冷静分析系」も、どちらにハマりすぎても嫌ですね。そこで小出は「ちょっと離れて歩く」と表現したのではないでしょうか。「出来るだけそばに」は行きます。でも結局それは自分とは違う相手のことですし、全てを理解したつもりになって接近しすぎるのは結局遠く離れるのと同じようなもので、相手に対する想像力をはたらかせることは難しくなるのではと思います。そのために、「ちょっと離れて歩く」んですね。

 さらにもう1つ撤回。この「第2段階とはじめ呼んでいた部分」を表現するための曲ということを言っていたんですけれども、そうではないですね。これは完全に否定します。じゃあ初めの方の文章書き直せよって感じですけど、それは単純に面倒くさい。

 「弱点の美しさとどう付き合うか」がメインではなく、「弱点の美しさに対してどう考えるかという過程にある様々な視座」を描いた曲だと思います。特によく分かるのがラスサビ前からラスサビ頭の部分。

同じ景色を見て

美しいなぁって思う

それこそが美しいなぁって

テレビ見て言う君が

美しいのさ 何よりも

 目まぐるしく視座が動き回りましたね。まずは「同じ景色を見て美しいなぁって思う」2人の視座。からの、テレビ見ながら「それこそが美しいなぁ」って言う「君」の視座。からの、その姿を「美しいのさ 何よりも」と思う自分の視座。そんな風に様々な視座が交錯しながら世の中出来上がってるんですね。そんな様々な視座を明らかにするための曲なんだと思います。

 

 てなわけで、マジか2900字。よう書きますわ。暇だからしゃあない。

 でもこれを書いている僕自身の視座はどんなものなんでしょうか。もし主観どっぷりだったら歌詞で描かれている景色をそのまま受け取るのみじゃないだろうか。神の視点を得たかのような冷静分析系オタクだったら(「だったら」とは言いつつも、意識してないと僕はわりとこの節あります。単純に言えば斜に構えてカッコつけがち。)結局どれも自分の視点だということを見落として、「そう言ってやっぱ違うかってなる」のあたりの解釈とかがショボくなったんじゃないだろうか。

 じゃあ僕の視点is何者なんですか、っていうか客観ってヤツも主観が集まってできているにすぎなくないですか、それって面積のないはずの点を一列に並べたらなぜか線が出来て、幅のないはずの直線を集めたらなぜか面になって、高さのないはずの面を重ねたらなぜか立体になるみたいなことですか、そういえば無限大×無限小は1ですけどそれは関係ないですかね、みたいなことばっかり考えて生きていたら精神が爆散しそうなんでBase Ball Bearの『美しいのさ』という曲を「美しいなぁって思」いました。曲を通して様々な視座を観察したり疑似体験したりできるので。でもそうしたら曲の中の世界を見ている僕の視点は、曲の中の世界からしたら神の視点みたいなヤツですかね。そしたらそこでは完全な客観ですけど、そもそも客観ってヤツも主観が集まってできているにすぎなくないですか、それって……

こぼさないでShadow

 大学まだ卒業はしてないけどもう授業が全く無く、映画観たりお笑い観たり本読んだり音楽聴いたり曲作ったりしまくっているのですが、それでも余白の時間があまりに多く色々なことを考えすぎて頭おかしくなってきていまして、気づけばもう1か月以上考察記事書いてなくてウケる。最近ハマっているものは安部公房鳥居みゆきです。安部公房はメジャーデビュー前後に小出も読み込んでたらしいですね。鳥居みゆき安部公房を愛読しているようで、小出と鳥居みゆきと二重にキッカケができたので読みました。『箱男』すごく良かった。

 しかしこうも余白が多い生活をしていると考えごとが頭の中で拡散して相当しんどいよね。心境としては『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』な感じですけれども。今読んでいる安部公房の『壁』だけにね。「一人だけの僕が一人だけの僕のこと 見つめている 見つめ合っている」っつって。自己実現と他者からの承認が大ゲンカして脳内ぐちゃぐちゃ。まさに『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』っつって。ポップっていうのは毒とか淀みみたいなものあってこそだなとか思うわけですね。めちゃくちゃ美味いし口に馴染むし食べやすいしおふくろの味のする毒みたいな。

 かたや俺は鳥居みゆきのDVDを見て、呟くんすわ

 This Is Pop.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 

 なんて言うておりますけれども。細かいニュアンスというか点と点の関連性の説明を端折りまくってここまで書きました。あ、『This Is Pop』はXTCの名曲です。最近同じ名前のXTCのドキュメンタリーがイギリスで放送されたそうで、日本での放送も話があるとかないとか。楽しみ。ところでこの記事は『こぼさないでShadow』の考察をしようという記事でございまして。今回の解釈はわりと個人的というか、僕はこう思うという種類のものですね。小出の意図ともあながち違ってはいないとは思うんですが。

 

 無理矢理話を繋げるようでアレですけど、さっきのポップっていうのは大衆の思考ありきのものだと思うんですね。多くの人の耳に馴染むというか、ヒットチャート志向とかそういうことではなくてですね、おもしろみのあるというか。そりゃどんな芸術も表現者が居れば受容者がいるわけだし、どんなにカルトなものでも受容者の態度を完全に排除した芸術というのは探すのが難しいでしょうけど。ただ、ポップというのは大衆への意識が強いものだと僕は思います。このとき、ポップというものにチャート志向のような意味付けをしようとすると、表現者の存在意義はどこに見出せるんでしょうか。それが沢山売れたら商品としては優秀だけど、アートとして、例えば人の思考や想像力に訴えかけるようなものは無いように思えてしまうような気がします。そうではなくて、ポップというのは大衆を意識しながらも、それ自体がアートとして素晴らしい価値を持ったものなんだと思います。『こぼさないでShadow』はその素晴らしい価値を示している曲だと思います。

 この曲の歌詞における「シャドウ」「マスカラ」といったメイクというのは、大衆への意識の象徴だと僕は解釈しています。

こぼさないでシャドウ こぼすくらいなら塗りつぶして

君はあの子じゃない 変われるから君はそう君にさ

 『「それって、for 誰?」part.1』の考察で超ざっくり言うと「売れ線への批判」みたいなことを述べたんですけど、それは単にマニアックにしろってことではないということをこの曲は伝えているように思います。「シャドウ」はいわば大衆から見られるようにするためのガワの表現です。アイシャドウはたいてい女性用のメイクですけど、この歌詞においては女性に限らずあらゆる人間の、または表現者たちのポップ成分みたいなものを表していると考えられます。「売れ線批判」っつったけど、そのポップ成分を全部なくせばいいのかっていうとそれは全然違うっていう。

 じゃあそれはなぜなのか。この記事の初めのあたりで「自己実現と他者からの承認」なんてことを書いたけど、この2つは生理的欲求の次にある、社会的な存在としての人間の欲求というか、願いなのかなと最近思います。そして両方のバランス感を求めて人間は悩みながら生きたり死んだりするのかなと。カッコつけた言い方すると、「人」から「人間」になろうともがくんですかね。人の間(小出の詩集は『間の人』ですね)と書いて「人間」なんで、単体ではなくて他者と繋がってこそ本当の「人間」だろうっつって。(この段落の話、鳥居みゆきNHKの番組でどこかの大学の社会学の教授と話してた内容です。伏線回収が抜群に上手いね俺。)

 で、だからシャドウを全部落とす=ポップ成分の排除というのは相手との間にある壁を1枚破ることができる行為かと思いきや、他者からの承認を諦める、他者との繋がりを断絶する致死的行為ですね。それにどんなに自分と相手との壁が壊されて完全に向き合ったとしても結局は他人、結合して同一の個体になったりなんてできんやろがいっていう。いや下ネタとかじゃなくて。何が下の口は正直やねん。誰が対魔忍や。つって。感度3000倍媚薬なんて言ってふざけておりますけれども。まあでも本当に、安部公房も人間そのものが壁だっつってますし。そして致死的行為と言いましたけど、他者との繋がりが完全に断たれた「人」にあるのはまさに死のみだと思います。死んだら自己実現も何もあったもんじゃないですよね。その意味で「自己実現」と「他者からの承認」は対極のもののようで実は表裏一体の似たもの同士だったりするんじゃないでしょうか。

 さらには「こぼすくらいなら塗りつぶして」です。それが意味するのはポップも突き詰めればそれは立派な自己実現だということだと思います。それこそまさに小出が最も尊敬するバンドのうちの一つ、XTCが最たる例ですね。(マジで伏線回収抜群かよ。お前はいいお芝居か。)

こぼさないでシャドウ 壊すくらいならMakeして

君はあの子じゃない 変われるから君はそう君にさ

 とも言っています。日本語の所謂メイクかと思いきや、作るという意味の「Make」だというこの小出節。そして何より他者と断絶して死ぬ(=「壊す」、「本当の『さようなら』」、「想像しないってこと」など)くらいなら、社会や他者に向けて全てを演じきって(=「塗りつぶして」、「Makeして」)でもポップを味方につけてゆけという。それは決して他者からの承認の代わりに誰かのコピーや偽物になって自分を失ってしまうということでも、魂を大安売りでヤフオクに売り飛ばすということでもなく、それこそが君らしさ(=自己実現)になり得るんだという。

恋の傘を閉じてもそこに心は残っているよ

 素晴らしい歌詞すぎる。「恋」という漢字のね。でもどうしたって自分の心はそこにあるんですね。

 1曲目で「売れ線批判」をした上で、じゃああなたのポップって何よと言われたとき、ベボベの出す答えがこの『こぼさないでShadow』なのではないでしょうか。そんなベボベさん、あなたこそ"This Is Pop"。

 

 そんなところです。途中途中また括弧書きでセルフツッコミしてしまったけど本当に文章全体の組み立てが上手くいって、内容としても今の自分の脳内をしっかり形にできてハンパねえ。あと最後の方でこっそり、僕が最近作った自分の曲の歌詞について考えていることを書いてしまいました。くだらない冗談を挟みつつ上手に伏線を回収することが、自分の満足いく表現に繋がりましたね。これぞまさに、ポップを突き詰めた先の自己実現。"This Is Pop".お後がよろしいようで。

 いやしかし文章じゃなくて、日常の実際の会話でもこう上手いこと相手に認められながら思ってることちゃんと喋れたらなあ。