あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

文化祭の夜

ブログに手を付けずに100日が経過してしまったのでここらでちょっと書いとこうと思ったんだよ。1か月ほど前、(LIKE A)の記事にこのブログ初めてコメントを貰ったんだよ。ありがとうございなんだよ。

 100日前の自分とは全然違う環境におるよね僕は。授業のない大学生4年(5年(4年))生という立場から社会人1年目のド下っ端という立場になり、実家から遠くはないけど一人暮らしを開始し、メガネをやめてコンタクトにし。違う環境にいれば違う悩みを抱えるようになるような、でも思考の根っこの部分は同じだったりとか。ビールが好きなのは変わらないんでビールを飲みながら書いているのだけど、職場の健康診断で尿酸値がギリギリであることを突き付けられたので飲んでるのがプリン体オフのやつに変化はしたけども。尿酸値以外はド健康なんだけどね~相変わらずメンタルがアレな点を除いては。特に社会人になってから睡眠がさらにヘタクソになったよね。朝まで通しで寝らんねえですぅ。

 みたいなこともあるけど、作品解釈の傾向にその変化は出てくるんでしょうかね。伏線回収フェチの僕のことだからきっと関係あるよ。そんな久しぶりの作品解釈は『文化祭の夜』。

 

 ベボベ的にも小出的にも、バンド結成から十数年経ってからやっと文化祭についての曲を作るというのはなかなか面白いもんじゃん。かつての青春系の感じで文化祭についての曲を作っていたらもっと主観的で感情的な曲になってただろうけど、この曲に見られるような、小出が表現したかった「趣」は無かったでしょうね。ベボベもこのときアルバム『二十九歳』リリースし終わってを三十一歳だったし、三十路の壁を超えるときはやっぱり人は何かを考えるもんなんだろうか。弱冠23歳のワタクシめが言うことじゃねえかもですけども。まあでも僕も大学生から社会人にクソ変身を遂げて環境の変化とともに色んなメンヘリネーション(最近の僕の流行語大賞で、気分が病む状態のことを指します)を巻き起こしたのと同じように、29歳と31歳の間には東京ドームにある長嶋さんのセコムの看板30個分のでかいベルリンの壁があるんでしょうね。

 基本的に人間変わらないでいたいもんじゃないすか。僕もせっかく芸術学科でお勉強してきて芸術を通して真実とかみたいな「気持ちが悪くて気持ちがいい」ヤツを追及することに価値を見出してきたけれども、社会人的には今あるものの中で流れに乗ってできる限りのことを頑張って社会的に認められるべきだという「気持ちが良すぎて気持ち悪い」ヤツを手にしようとすることは大事なことだなって。必ずしも前者が善で後者が悪というワケではなくて、後者も後者で大いに認めるべきものであることも確かで、でも今それを素直に受け入れられるようにはなれないという状況だけは確かに言えるっていうのが、今現在の僕のリアルな状況っすわ。AとCのどちらも十分に理解してはいるけど、だからといって決めきれるわけでもなく「AでもないCでもない、その狭間でモヤモヤしたBな生徒のためのクラス、B組の講師Base Ball Bearボーカルギターの小出祐介です」って感じで、さらにそのBな状況を十分に理解しているからこそ表現できるものがあったんじゃないかなって思ったよね。その一つが文化祭という世界観をメタに捉えることで表現できるその「趣」なんでございましょうね。

 

 歌詞を見ても「あのとき」「あの夜空」「あの夜風」「あの気持ちカミングバック」みたいに、三十一歳現在の小出がその世界観を思い出すという言葉遣いで、だからこその客観視と「文化祭の夜」という現象にある趣の表現でしょうね。

 

明日は何もないっていうのに

 

買い出し行かなくっていいのに

 

 みたいに、そこには三十一歳的視点では間違いだけど当時はそれすら重要なイベントだった、っていうことを理解することが「趣」ってものを感じるときの思考回路の流れなんじゃないのかなって。十七歳当時の感情的な点だけを表現するでもなく、三十一歳現在の理論的な点だけを表現するでもなく、「その両者を認めたうえで今の自分はこうです」っていうベボベ流のリアリティを感じることに成功しましょうかね。「我思う、故に我在り」言うてますけれども。

 

 僕たちB組の生徒にはそんな「趣」を存分に味わえる環境が整っているんだ。B組サイコー、サンキューBase Ball Bear。

曖してる

 この曲初めて聴いたときは新たなダンス湯浅将平曲だと思ったんですけどね。

 とか言ってしれっと書き始めようとしているけど3か月ぶりに書くって結構だ。この3か月でシューゲイザーバンドに加入して何回かライブをやって脱退してとかをしていて、ちょっとワチャワチャしていたのですけれども。

 『曖してる』の考察、カッティング&スラップベースというサウンド的な特徴が強い曲だからサウンド面の考察にしようかなと思っていたのだけど、となるとルーツを結構調べないといけなくて相当難しいから他に上手いことやりようがあればなあと思って全然進まなかったから久しぶりになってる感じですね。あと僕はこの曲、堀之内ドラムの気持ちいいスネアの音と、サビでの湯浅ギターのトレモロが好きです。まあ結局これまで通り社会学的というか哲学的というか文学的というか心理学的というか、なんとも言えない僕の変な側面からの考察をすることにしたわけですけど。久しぶりに書くからこの段落もすでに一文が長すぎて読みづらい。

 別に誰に言われてやってるわけでもないから好きな時に好きに書いたら良いのだけど、とはいっても本当に純粋な自己満のオナニー作文でもないわけですよね、ブログという形で公開している時点で。驚くべきことに検索エンジンとかからアクセスしている人間さんがいてくれているようで、「別にだから何ってわけではないけど」とか言っても、やっぱりたとえ批判的な見方であっても少なからず受け手がいてくれることは表現のやりがいとまではいかなくても前提くらいにはなるんじゃないですかね。

 とかまあ面倒なこと書きまして、『曖してる』ってこういうことですよねっていう。芸術表現って例えば単なる趣味嗜好の傾向を提示するTwitterのプロフィールみたいなものじゃないと思うし、でもそういう側面もあっていいと思うわけですね。よく言われる承認欲求だって表現のうちの立派な要素だし、それ自体を否定する人の意見はちょっと理解が難しいですね。でももちろん極端に承認欲求が前面に出すぎているのを見るとキツイと思います。しかしそういう人の表現も承認欲求だけで構成されているわけではないわけで、でもどうしてもその点に目がついてしまうということはあります。

 

 とまあ一つ上の段落で承認欲求という言葉が出てきてから3度も逆説の接続語を使いましたけれども、それでじゃあ結局何なのってところは僕には言い切れないです。こういうのを哲学では弁証法っていいますよね。ある命題に対してその否定をぶつけて両者を検討することで、より次元の高い命題を獲得できるってヤツですけれども。だから大学受験の英文解釈のようにbutやhoweverの後だけを見れば結論が得られるわけではなく、その過程の比較検討にこそ意味があるんだというのが『曖してる』という意味じゃないでしょうか。

 ここまでベボベのべの字も出てこない文章を書いてしまったけど、このアルバム『C2』、まさに弁証法で構成されていると思います。1曲目の『「それって、for 誰?」 part. 1』は商業的なコンテンツに対する批判という側面が強いものでした。でも2曲目『こぼさないでShadow』ではある意味で商業的なものも含め、後塗りのポップも肯定しました。このように相反するものを認めるというのは弁証法の基本じゃないかと思います。でも弁証法によって得られる新たな命題にもさらなる否定はぶつけられるものです。その繰り返しこそが弁証法なんですが、つまり結論なんてものは本当は出ないはずなんですね。でもあまりに結論が出なさすぎるとコミュニケーションが不可欠な世の中面倒くさいことこの上ないので、暫定的に数々の言語を用いて「喜び」とか「悲しみ」とかって言葉で表現してます。でもずっと暫定的なのも困るから、その先にある真実みたいなものにより近づくために芸術というものがあるんじゃないでしょうかね。

 理屈も魔法も禁止にして 漠然を抱きしめる

 言うてますけれども、言葉という「理屈」や「魔法」ではカバーしきれない真理のようなものは「漠然」としたものだと思います。そこを追いかけるということこそが弁証法であり、小出が言うには「終わらないPOV」なんじゃないでしょうか。

 最後に苦し紛れの歌詞引用をしたので、これで『曖してる』の考察として成立したことにしましょう。

美しいのさ

 1か月ほど前に今年一の泥酔をしまして、12時間ほど吐き続け申しました。アルコールはめちゃくちゃ弱いというわけではなく、平均より少し弱いくらいなのかと思うんですけど。それでちょうどトリキの金麦(大)1杯ごとに酔いの段階が上がっていくことを学びましたね。2杯目で既に丁度良くテンションが上がり、3杯目で話のオチを安易に下ネタに繋げるようになり、4杯目の途中で嘆きだし、4杯目を飲みきる頃には具合がかなり悪くなってたと思います。ちなみに私はビール系以外はほとんど口にしない人間だって昨日から言ってるでしょ。

 さて、暴力的に無理矢理な繋げ方をしますけど、この曲の理解にも第1段階と第2段階があるのかなと思いました。その境界は2度目のサビ終盤のこの部分。

出来るだけそばにいたいよ

そう言って、ちょっと離れて歩く

 そこまでは第1段階「弱点is美しいのさ」パート。この部分以降は第2段階「その美しさとどう付き合うか」パート。そしてここでは第2段階を表現するための第1段階と考えています。(注:後半でこのあたり撤回してます。)今回の記事はその段階に分けて考えていきます。

 

 まずは第1段階ですが、弱点を愛してしまう心理って何なんでしょうね。他者に対しても自分に対しても物に対してもだけれど。あともちろん音楽を含むアート作品に対しても。コミュ力ウルトラMAXでインスタ映えまくりみたいな人間より闇が深そうな人の方に魅力を感じたり、女の人と会話するのが満員電車の次に苦手な自分に困るのは困るんだけどそんな自分が嫌いじゃない心理だったり、所々塗装が剥げて打痕が痛々しいギターにハンパねえ愛くるしさを覚えたり、粗削りなインディーズやメジャーデビュー直後時代の作品を好きになったり。

 この心理僕は思うに、全ての価値観は「自分と相手の関係」の中に生まれるからというのが理由の一つなのではないかと思います。対象を見据える主体はどこまでいっても紛れもなく自分で、どんなに斜に構えてもどんなに俯瞰してもどんなに客観的になったつもりでも、客観的に見ていると思いこんでいる主観でしかないわけです。いい年こいて主観だけにどっぷり浸かっている人間が一番絶望的ですけど、完全な客観である神の視点を得たかのように斜に構えた冷静分析系オタクもまたキツイもんです。

 つまり人間は人や物に対する好き嫌いなどを考えるとき、「対象の能力・才能・容姿等を数値化して合計何点か」みたいな判断方法は採っていないわけです。それは神の視点による判断方法です。そうではなくて、「対象を好きになる自分」と「自分に好かれているその対象」とのバランス感が重要なんだと思います。そしてそのとき、対象の弱点や痛みについては自分の想像力が最も多くはたらくスペースなのかなと。弱点のない対象には、自分の想像力をはたらかせる余白が存在しないわけです。つまりそんな完全無欠の対象と共存しているとき、自分の存在は無になるんですね。ひとつ前の『こぼさないでShadow』の記事でも書いたんですが、社会的存在としての人間には「自己実現」という欲求があります。ここでは「自分の意志・思考・意識などを持つこと」みたいな感じになるんですかね。例えばギターについた沢山の打痕からそのギターと過ごした時間を想起するみたいなことですね。んー例を挙げるとなんか薄くなる感じがしてしまうけど。でもそのようなことを想起する、想像することは、人間が自分の存在を認めるために必要なことなのかと。

美しいのさ 何よりも 

そう言って やっぱ違うかってなる

 って言っておりますけれども。主観的な自分から弱点が魅力的に見えたり、ちょっと俯瞰して客観的な視点から「やっぱ違うかってな」ったりするってことかと。そういった弱点はもちろん「美しいのさ」と感じられるものですけど、でもやっぱり弱点は弱点なんですね。その2つの「視座」(アルバムC2全体を通してのテーマです)を行ったり来たりして人間生きているんですね。まあでも結局どんなに俯瞰していても最後は自分の視点で生きるわけですけど。繰り返しですが俯瞰だって結局自分ですから。

 そんなわけで、自分の想像力の躍動を求めて、人間は弱点を美しいと感じるのだと思います。しかし、一つここまでの話には重大な欠落があります。それは、もうどう考えてもまるで美しいとは1ミリも感じられないような種類の弱点も世の中には多いということです。例えばただただ傍若無人なだけの態度だったり、どう想像を広げて聴いたっていっこも面白いと思えない上に単純に演奏が下手なバンドとか。例えばですよ例えば。For example.そんな種類の弱点と区別して、もしくは美しいと感じていた弱点が本当にどうしようもない弱点と化さないようにして、弱点の美しさとどう付き合うかを表現しているのが第2段階です。(ここまでで1900字やっちゃって飽きてきた。ここから書いている日付が2週間ほど空きます。)

 

 で、後半を書こうと思って前半読み返してみて思ったんですけれども、この曲第1段階第2段階とかって分けるのあんまり上手くないですね。この記事の文章の導入部分から繋げるために(にしても無理矢理な繋げ方だけど)第1段階第2段階みたいな構成にしようと思ったんですけど、やっぱり無理ありますわ。ということでやめます。

 「弱点の美しさとどう付き合うかを表現しているのが第2段階」なんて面白みのないこと書きましたけど、まあその答えとして書こうとしていたことだけ書くならば、

出来るだけそばにいたいよ

そう言って、ちょっと離れて歩く

ってとこの解釈ですかね。上にも書いたんですけど「主観どっぷり」も「勘違いした客観の冷静分析系」も、どちらにハマりすぎても嫌ですね。そこで小出は「ちょっと離れて歩く」と表現したのではないでしょうか。「出来るだけそばに」は行きます。でも結局それは自分とは違う相手のことですし、全てを理解したつもりになって接近しすぎるのは結局遠く離れるのと同じようなもので、相手に対する想像力をはたらかせることは難しくなるのではと思います。そのために、「ちょっと離れて歩く」んですね。

 さらにもう1つ撤回。この「第2段階とはじめ呼んでいた部分」を表現するための曲ということを言っていたんですけれども、そうではないですね。これは完全に否定します。じゃあ初めの方の文章書き直せよって感じですけど、それは単純に面倒くさい。

 「弱点の美しさとどう付き合うか」がメインではなく、「弱点の美しさに対してどう考えるかという過程にある様々な視座」を描いた曲だと思います。特によく分かるのがラスサビ前からラスサビ頭の部分。

同じ景色を見て

美しいなぁって思う

それこそが美しいなぁって

テレビ見て言う君が

美しいのさ 何よりも

 目まぐるしく視座が動き回りましたね。まずは「同じ景色を見て美しいなぁって思う」2人の視座。からの、テレビ見ながら「それこそが美しいなぁ」って言う「君」の視座。からの、その姿を「美しいのさ 何よりも」と思う自分の視座。そんな風に様々な視座が交錯しながら世の中出来上がってるんですね。そんな様々な視座を明らかにするための曲なんだと思います。

 

 てなわけで、マジか2900字。よう書きますわ。暇だからしゃあない。

 でもこれを書いている僕自身の視座はどんなものなんでしょうか。もし主観どっぷりだったら歌詞で描かれている景色をそのまま受け取るのみじゃないだろうか。神の視点を得たかのような冷静分析系オタクだったら(「だったら」とは言いつつも、意識してないと僕はわりとこの節あります。単純に言えば斜に構えてカッコつけがち。)結局どれも自分の視点だということを見落として、「そう言ってやっぱ違うかってなる」のあたりの解釈とかがショボくなったんじゃないだろうか。

 じゃあ僕の視点is何者なんですか、っていうか客観ってヤツも主観が集まってできているにすぎなくないですか、それって面積のないはずの点を一列に並べたらなぜか線が出来て、幅のないはずの直線を集めたらなぜか面になって、高さのないはずの面を重ねたらなぜか立体になるみたいなことですか、そういえば無限大×無限小は1ですけどそれは関係ないですかね、みたいなことばっかり考えて生きていたら精神が爆散しそうなんでBase Ball Bearの『美しいのさ』という曲を「美しいなぁって思」いました。曲を通して様々な視座を観察したり疑似体験したりできるので。でもそうしたら曲の中の世界を見ている僕の視点は、曲の中の世界からしたら神の視点みたいなヤツですかね。そしたらそこでは完全な客観ですけど、そもそも客観ってヤツも主観が集まってできているにすぎなくないですか、それって……

こぼさないでShadow

 大学まだ卒業はしてないけどもう授業が全く無く、映画観たりお笑い観たり本読んだり音楽聴いたり曲作ったりしまくっているのですが、それでも余白の時間があまりに多く色々なことを考えすぎて頭おかしくなってきていまして、気づけばもう1か月以上考察記事書いてなくてウケる。最近ハマっているものは安部公房鳥居みゆきです。安部公房はメジャーデビュー前後に小出も読み込んでたらしいですね。鳥居みゆき安部公房を愛読しているようで、小出と鳥居みゆきと二重にキッカケができたので読みました。『箱男』すごく良かった。

 しかしこうも余白が多い生活をしていると考えごとが頭の中で拡散して相当しんどいよね。心境としては『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』な感じですけれども。今読んでいる安部公房の『壁』だけにね。「一人だけの僕が一人だけの僕のこと 見つめている 見つめ合っている」っつって。自己実現と他者からの承認が大ゲンカして脳内ぐちゃぐちゃ。まさに『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』っつって。ポップっていうのは毒とか淀みみたいなものあってこそだなとか思うわけですね。めちゃくちゃ美味いし口に馴染むし食べやすいしおふくろの味のする毒みたいな。

 かたや俺は鳥居みゆきのDVDを見て、呟くんすわ

 This Is Pop.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 

 なんて言うておりますけれども。細かいニュアンスというか点と点の関連性の説明を端折りまくってここまで書きました。あ、『This Is Pop』はXTCの名曲です。最近同じ名前のXTCのドキュメンタリーがイギリスで放送されたそうで、日本での放送も話があるとかないとか。楽しみ。ところでこの記事は『こぼさないでShadow』の考察をしようという記事でございまして。今回の解釈はわりと個人的というか、僕はこう思うという種類のものですね。小出の意図ともあながち違ってはいないとは思うんですが。

 

 無理矢理話を繋げるようでアレですけど、さっきのポップっていうのは大衆の思考ありきのものだと思うんですね。多くの人の耳に馴染むというか、ヒットチャート志向とかそういうことではなくてですね、おもしろみのあるというか。そりゃどんな芸術も表現者が居れば受容者がいるわけだし、どんなにカルトなものでも受容者の態度を完全に排除した芸術というのは探すのが難しいでしょうけど。ただ、ポップというのは大衆への意識が強いものだと僕は思います。このとき、ポップというものにチャート志向のような意味付けをしようとすると、表現者の存在意義はどこに見出せるんでしょうか。それが沢山売れたら商品としては優秀だけど、アートとして、例えば人の思考や想像力に訴えかけるようなものは無いように思えてしまうような気がします。そうではなくて、ポップというのは大衆を意識しながらも、それ自体がアートとして素晴らしい価値を持ったものなんだと思います。『こぼさないでShadow』はその素晴らしい価値を示している曲だと思います。

 この曲の歌詞における「シャドウ」「マスカラ」といったメイクというのは、大衆への意識の象徴だと僕は解釈しています。

こぼさないでシャドウ こぼすくらいなら塗りつぶして

君はあの子じゃない 変われるから君はそう君にさ

 『「それって、for 誰?」part.1』の考察で超ざっくり言うと「売れ線への批判」みたいなことを述べたんですけど、それは単にマニアックにしろってことではないということをこの曲は伝えているように思います。「シャドウ」はいわば大衆から見られるようにするためのガワの表現です。アイシャドウはたいてい女性用のメイクですけど、この歌詞においては女性に限らずあらゆる人間の、または表現者たちのポップ成分みたいなものを表していると考えられます。「売れ線批判」っつったけど、そのポップ成分を全部なくせばいいのかっていうとそれは全然違うっていう。

 じゃあそれはなぜなのか。この記事の初めのあたりで「自己実現と他者からの承認」なんてことを書いたけど、この2つは生理的欲求の次にある、社会的な存在としての人間の欲求というか、願いなのかなと最近思います。そして両方のバランス感を求めて人間は悩みながら生きたり死んだりするのかなと。カッコつけた言い方すると、「人」から「人間」になろうともがくんですかね。人の間(小出の詩集は『間の人』ですね)と書いて「人間」なんで、単体ではなくて他者と繋がってこそ本当の「人間」だろうっつって。(この段落の話、鳥居みゆきNHKの番組でどこかの大学の社会学の教授と話してた内容です。伏線回収が抜群に上手いね俺。)

 で、だからシャドウを全部落とす=ポップ成分の排除というのは相手との間にある壁を1枚破ることができる行為かと思いきや、他者からの承認を諦める、他者との繋がりを断絶する致死的行為ですね。それにどんなに自分と相手との壁が壊されて完全に向き合ったとしても結局は他人、結合して同一の個体になったりなんてできんやろがいっていう。いや下ネタとかじゃなくて。何が下の口は正直やねん。誰が対魔忍や。つって。感度3000倍媚薬なんて言ってふざけておりますけれども。まあでも本当に、安部公房も人間そのものが壁だっつってますし。そして致死的行為と言いましたけど、他者との繋がりが完全に断たれた「人」にあるのはまさに死のみだと思います。死んだら自己実現も何もあったもんじゃないですよね。その意味で「自己実現」と「他者からの承認」は対極のもののようで実は表裏一体の似たもの同士だったりするんじゃないでしょうか。

 さらには「こぼすくらいなら塗りつぶして」です。それが意味するのはポップも突き詰めればそれは立派な自己実現だということだと思います。それこそまさに小出が最も尊敬するバンドのうちの一つ、XTCが最たる例ですね。(マジで伏線回収抜群かよ。お前はいいお芝居か。)

こぼさないでシャドウ 壊すくらいならMakeして

君はあの子じゃない 変われるから君はそう君にさ

 とも言っています。日本語の所謂メイクかと思いきや、作るという意味の「Make」だというこの小出節。そして何より他者と断絶して死ぬ(=「壊す」、「本当の『さようなら』」、「想像しないってこと」など)くらいなら、社会や他者に向けて全てを演じきって(=「塗りつぶして」、「Makeして」)でもポップを味方につけてゆけという。それは決して他者からの承認の代わりに誰かのコピーや偽物になって自分を失ってしまうということでも、魂を大安売りでヤフオクに売り飛ばすということでもなく、それこそが君らしさ(=自己実現)になり得るんだという。

恋の傘を閉じてもそこに心は残っているよ

 素晴らしい歌詞すぎる。「恋」という漢字のね。でもどうしたって自分の心はそこにあるんですね。

 1曲目で「売れ線批判」をした上で、じゃああなたのポップって何よと言われたとき、ベボベの出す答えがこの『こぼさないでShadow』なのではないでしょうか。そんなベボベさん、あなたこそ"This Is Pop"。

 

 そんなところです。途中途中また括弧書きでセルフツッコミしてしまったけど本当に文章全体の組み立てが上手くいって、内容としても今の自分の脳内をしっかり形にできてハンパねえ。あと最後の方でこっそり、僕が最近作った自分の曲の歌詞について考えていることを書いてしまいました。くだらない冗談を挟みつつ上手に伏線を回収することが、自分の満足いく表現に繋がりましたね。これぞまさに、ポップを突き詰めた先の自己実現。"This Is Pop".お後がよろしいようで。

 いやしかし文章じゃなくて、日常の実際の会話でもこう上手いこと相手に認められながら思ってることちゃんと喋れたらなあ。

「それって、for 誰?」 part. 1

 アルバム『C2』の考察に入りましょうかね。アルバム全体を通して歌詞がわりと尖ったことを言っていて直接的だと思うんで、そこを解釈としての言葉に置き換えて言語化してしまうとめちゃくちゃ薄っぺらく見えてしまうのではないかと思っとります。ギターのサウンドが優しい感じなだけに、鋭い歌詞はより際立っていると思います。ですのでアルバム『光源』のときのような「楽曲を通して小出・ベボベが何を伝えたいか」よりも、「伝えたいことを小出・ベボベがどのように表現しているか」に注目していきたいと思っています。って言って伝わりますかね。つまり歌詞の言葉遊びやサウンド面などの曲のガワのことなんですけれども。まあその「伝えたいこと」、いわば曲の核心にも勿論触れては行きますけれども。あとはベボベがその核心に至ろうとするまでの社会や音楽シーンの状況についても僕なりの考えをうだうだ書いてもいいかとも思っていますけれども。

 といったことを書くことによって僕は僕自身がこれから書き始める考察の指針を定めているんですね。アルバム1曲目の『「それって、for 誰?」 part. 1』もそういう役割があると思いました。『光源』のときは全体を通して聴くことで、1曲目の『すべては君のせいで』が分かってきた感じでした。それに対して『C2』は「それって、for 誰?」という結論を先に持ってきて、それに続く曲の解釈の指針がリスナーに与えられるわけです。ただその結論というのはいくつもあるうちの1つの結論で、アルバムのテーマである「視点・視座(see)」に最も迫る一番抽象的な結論は『カシカ』かと思いますけども。

 

 ルールとかマナーとかって基本的によっぽどでなければ守っていた方が周りに迷惑かけないし、自分自身も穏やかに生きられると思うんですよ。ただ、それらに関して思考停止して、公共の福祉という目的とマナーという手段が入れ替わってしまっている人たちって関わっていてしんどくないですか。「マニュアルはマニュアルなんだから、マナーはマナーなんだから効率が悪くても守らないやつは昇進させない。」みたいな。「A=Bである。なぜならB=Aだからだ。」みたいな。そこには安定した自分の立場を守るために良い変化をも排斥する、効率が悪くてキモいオッサンみたいな性質があると思います。そういうことやってる限り当人たちは良い気分なんでしょう。外から見てる側からすれば気持ち悪いだけですけど。所謂「気持ちが良すぎて気持ち悪い」というヤツ。『Darling』のときに言及した「ルール適用の柵」みたいなものを過度に高く設定するのって、カーストのドてっぺんのクソつまんない文化祭ノリのウェイみたいな鬱陶しさを僕は感じます。(こういうこと書くとどうしても政治的な思想のニュアンスが含まれていると思われそうで嫌なんですが、別にその辺に関して何も言いたいことはないので、読まれる方がどんな思想を持っていても楽曲の考察としてまともに読めるものになるはずです。とにかくそこに焦点が当たってちゃんと伝わらないのは残念なんで、こんなことを挟みました。)

 「で、それって、for 誰?」って言えますよね。目的を失った手段って。もしくは目的のすり替わった(公共の福祉→お偉いさんの立場の安定、など)手段って。そしてこの曲でテーマとして挙げている現象は、ベボベから見た今の日本の音楽シーンにおけるこの「目的がすり替えられた手段」問題でしょう。小出がよく言う「バンドマンのビジネスキノコ」問題とかわりと分かりやすいですよね。いやまあ別に髪型には元々目的なんてものはないけども。あとは昨今の思考停止したかのような四つ打ちブームに対する不信感とか。

 ベボベは今のロキノン界隈に四つ打ちを持ち込んだバンドの1つであることは確かです。しかし、今やバンド音楽において四つ打ちやビジネスキノコはYouTubeの再生数を伸ばすための売り物と化してしまっています。そうじゃないだろと。「で、それって、for 誰?」と。ベボベは天然のキノコで天然の四つ打ちバンドで、それが自分たちらしさだからそうしているんです。自分たちらしさを確立するための手段としての四つ打ちです。ただ売れるからというだけで思考停止した四つ打ちバンドたちは、言わば養殖モノだと言いたい。YouTubeの再生数というエサに群がって四つ打ちさせられてるんですよ。こう言って僕がなんとなくイメージしてるバンドたちが本当はどんな信念をもってやってるかは知らないんで、むやみに否定はしませんけども。

 本来の音楽、というか芸術ってそういった再生数や人気みたいなものに終始してしまうようになったら未来はないと思うんですね。端くれといえども芸術を専攻する人間として。重要な要素ではあると思います、しっかり売れるというのは。しかしそれだけで始まってそれだけで終わってる中身のない娯楽音楽は一発屋芸人みたいなもんです。そこに一石を投じたいというベボベの意志表明の曲だと思いました。

 

大喜利みたいなEveryday 発信したくて仕方ない

答えがいつも先に立って問題がなぁなぁなぁになって

 

体操着みたいなEveryone 集めた井戸は騒

選ばされた答え身に纏ってドッチータッチーな状況

 

 まさにですね。「こうすれば売れる」という範囲が出来上がってしまって、表現者側もその養殖用の囲いに尻尾振って飛び込んで、精一杯大喜利してるような状況を描いてますね。(この文の比喩、養殖だから水産物なのか、尻尾振ってるから犬なのか、わけわかんなくてウケますね。)で、その結果出来上がる作品も「体操着みたい」に似通ったものに収束していくわけです。その作品という答えは彼らも知らず知らずのうちに売れ線という見えない力に「選ばされ」ているんです。「ドッチータッチー」は四つ打ちのリズムの擬音と、選ばされたもので全身を固めて結局何も自分の言葉を紡げていない、自分の意志や立場を何も表明できていない「どっち立ちな状況」をかけているんだと思いました。それを逆に四つ打ちで表現するベボベ、かっけえですよね。

 

『垢がうんとついてる僕たちの うっせぇ!しかない日々こそ』

 

 みたいな日々の一挙手一投足や、「惚れた腫れたの一部始終」こそが自分らしさを持った本当の芸術表現に繋がってくるわけで、売れるために養殖されたコンテンツなんて結局何の意味があんの、「それって、for 誰?」ってことです。

 しかしながら、

 

『こういうこと言っちゃってるこの曲こそfor 誰?』

 

 と言って、偽物であっても既に作られてしまった神話みたいなものに抗う難しさも無視していないということでもあると思います。柵の中でワイワイやらされている芸術に石を投げようと柵の外に出たんですが、出てしまったら出てしまったで誰もいないからそれまた「for 誰?」ってなってしまうんですね。ちなみに柵の外に出るというのは、PVでの電話ボックスから出てさらにカメラのフレームからも出るというところに通じますね。

 ただそれでも、(逆説の逆説で文が分かりにくいね)

 

『こういうこと言っちゃってるこの曲』をfor you

 

 と言って受け取ってくれるリスナーやファンの存在に希望を見出してもいます。それは例えばこの僕のように。(みたいなこと言うのは思い上がりも甚だしいですね。そういった思い上がりは『image club』の歌詞に反するものです。今回は括弧書きのセルフツッコミが多い。グッド・バイ。)

アルバム『光源』まとめ

1.すべては君のせいで

 初めてですごく月並みなことばっか書いていた上に、ここで書いた解釈を『Daring』の記事で微妙に修正します。PVの考察は悪くないが十分に説明できてない感じ。

 

2.逆バタフライ・エフェクト

 曲の解釈というよりも湯浅脱退事件への湯浅視点からの推測がメイン。ただその上でそれを出来事としてどう捉えるかというのが曲の解釈になる。長い。

 

3.Low way

 湯浅を欠いた直後のベボベの姿を推測し、それをもとに曲の解釈をした。湯葉を食べるミッシェルのように優しい気持ちになるよ。

 

4.(LIKE A)TRANSFER GIRL

 一番見てもらいたい。ベボベ湯浅論1A(2単位)って感じ。こういうのは思い切った解釈をせざるを得ないけど悪くない考え方だと思う。絶賛異論募集中。

 

5.寛解

 (LIKE A)の考察を書いて疲れてしまった。ベボベの楽曲における「異空間モノ」について。今後の考察にも生きてきそう。

 

6.SHINE

 歌詞の解釈はナイスだと思うがそれは後半の少しだけ。前半は聴衆の期待とバンドの創作との関係について書いた。テーマとしては良いが不完全。比較対象はPOLYSICS

 

7.リアリティーズ

 この曲は初めて聴いた一発目でなかなかの感動をしてしまったせいで、そこから更なる想像を広げることが出来ずに関係ないこと書きすぎた。スーパー好きなんだけども。

 

8.Darling

 アルバム締めの曲らしくうまく纏まった考察が書けた。(LIKE A)の次に見てもらいたい。ヴェンダースを引き合いに出したのがナイス俺。

Darling

 今回はすっと本題へ。小出が何度か言っていた「青春を対象化出来た」という言葉はすなわち「苦い青春も甘い青春も、今現在新しい意味を持って自分の中で躍動している」みたいなことなんじゃないかと思った。で、これはそういう曲。

 中学高校のいわゆる青春時代にやっていたことって何の意味があるんだって思ったことは誰しもあると思います。ド陰キャラもウルトラリア充もマジなヤンキーもマジメちゃんも誰でも。体育祭とか文化祭とかはもちろんだし勉強とか部活とかクラス内の振る舞いとか。元々は部活は部活のための部活で、それ以上でも以下でもないはず。でも時間が経てばそこには何か別の意味が与えられて、青春時代の行いが今の自分を構成するひとつの比喩のようになるみたいなことってあると思う。だから小出の言う「時間は神様」なんですね。

大人になってく そのうちに閉じた橋向こうの

遠い日と遠い瞬間とつながる

ああ、君のせいで何時でも 何時までも

 なんて風に、断絶されていたと思っていた過去のある一点と現在がつながってくるものですね。ここでの「君」やタイトルの「Darling」とは時間という神様のことでしょう。

Darling 強い光 時の女神

マテリアルな僕を琥珀色のリボンで撫ででゆく

あの日のように 一秒で

 いやそもそも意味って何だって感じがあるのでここの歌詞で僕の解釈をはっきりさせたい。「マテリアルな僕」とはただその瞬間のルールに支配された自分、普遍的な意味を持たない自分ということ。materialとは「物質的な、具体的な」という意味。さっきの部活の件と言いたいことは同じだが、例えば甲子園予選。実際に甲子園に出てスカウトの目に留まるようなプレーでもすれば違うだろうが、たった予選1回勝てるかどうかのチームがキツい練習をするのに何の意味があるのか。こう考えるとき僕たちは「野球」や「甲子園」や「部活」といったものをメタな視点で捉えているわけです。実際にはたった1試合でも勝つことに価値があるという甲子園予選におけるルールや価値観や前提の下、練習に励むわけです。しかしそれは甲子園と無関係な僕らには影響を及ぼさないルールです。甲子園と無関係な僕らにはそれぞれ生きる社会に存在するそれぞれのルール(我々大人にとってその多くはお金と健康と他者の目)があり、甲子園という狭い範囲にしか影響しないルールによって生まれる経験の多くは、別の社会のルールで生きる僕らには無意味なわけです。甲子園予選で1回勝ったことそれ自体を称賛してくれる社会はほぼ無いでしょう。

 これが僕が上で述べた「部活は部活のための部活で、それ以上でも以下でもない」ということの意味です。ただその瞬間その範囲でのみ適用されるルールの下で行動した経験は、そこだけだったら具体的な(マテリアルな)意味を持つが、他のルールが適用される範囲に出たときにも普遍的に同じ意味を持つということはない。ずっと部活で喩えてきたが、それ以外のどんな経験も同じでしょう。特に青春時代においては学校という限定的かつ強力なルール適用の枠組みがあるため、その傾向が強いと思われる。無自覚なクソバカが「高校の勉強なんて社会に出たら何の役にも立たない」みたいなことを無駄にデカい声で言いたがるのはそのためかと。で、まあそのルールのことを一般的にはイデオロギーと呼ぶわけですが、イデオロギーという言葉を使うと話が別の所に引っ張られそうなので控えた。

 「マテリアルな僕」とはそういうものです。そんな「マテリアルな僕」ですら、「時の女神」は「琥珀色のリボンで撫で」るようにルールの柵を飛び越えて別の意味を与えてくれるわけです。甲子園予選で1勝しか出来ずとも、仲間と部活やった経験は実在し、その仲間との繋がりが大人になった現在の自分にも別の意味で通用するような。これが「マテリアルな」ままである限り青春は現在進行形です。そして時間が経って新たな意味が与えられたとき、それを「対象化できた」と言えるのではないだろうか。

 

 今回小出はこのアルバム光源で自身の青春を対象化できたわけだが、この対象化って別に良いことばかりでもないというのも事実。それは過去の無意味が時間を経過して意味を持つというのに皮肉めいた感覚を得てしまうため。僕の好きなヴィム・ヴェンダースというドイツの映画監督の作品で『誰のせいでもない』(2015)という映画があるのだが、ここで撮られている映像で感じられることはその皮肉めいた感覚に通じる。

 不慮の事故で幼い少年を死なせてしまった小説家が、その苦悩ゆえに自身の作品に深みが出て世間にも評価され、後に成功者としての人生を歩めたという物語。これもまさに事故という過去を対象化して現在を生きた結果でしょう。でもじゃあその少年の家族は?過去に取り残された者にとって、その過去を対象化されてしまうのは耐え難いものであるはず。自分にとってはまだその渦中にいるのに、他人からはそれを生きるための道具に使われてしまうわけだから。(実際には『誰のせいでもない』ではそれは表のテーマで、ヴェンダースはそのパッケージを使って自身の映画表現についての考え方を表現していると思われる。僕は最近この映画で割とな評論書いたくらいだからテキトーに纏めてしまうのが少し残念だが、ベボベから話が逸れるのでカット。)

 さて、ベボベにとって現在直面している問題はもちろんギター湯浅が欠けたことでしょう。メンバーの脱退すらも「エンターテイメントとして昇華していく」のはかなり厳しいものです。4人時代のベボベに取り残されたファン、そして湯浅本人にとっては。しかし時間という神様はそれすらも対象化させて、今現在における意味を与えてしまうわけで。

 今までは対象化しても平気な問題が多かったのだろうと思う。LOVE&POPまでのやりたいことが出来ていないフラストレーションとか1度目の武道館の不完全燃焼とか。ただ今回の問題をエンターテイメントにすることには大きな痛みを伴うわけです。湯浅がもたらしたその痛みが、ベボベに対してバンドによる音楽表現というものや、Base Ball Bearというバンドの本当の意味を意識させたのでしょう。『すべては君のせいで』のMVがあのようなメタな視点を持った映像になっているのもそのためでしょう。(『すべては君のせいで』の記事参照)

 『すべては君のせいで』の記事のとき、「君」というのはBase Ball Bear自体という解釈を述べました。ベボベという生命体の在り様を表現した曲だと。それは間違っていないし正解だと思っている。結果的にはそういうことなんです。しかしそこで無視してはならないのが時間という神様の存在。色々なものに意味を与えてしまう。だから「良くも悪くも」時間は神様なんですね。

 

 小出がヴェンダースの映画を観ていたかは分からないけど、ヴェンダースが「Every Thing Will Be Fine」(『誰のせいでもない』の原題)と言って過去に新しい意味が与えられることを肯定したのに対し、小出は「すべては君のせいで」と言って君=時間のもつ逆らえない力を歌ったわけですね。湯浅がベボベにもたらした良いことは良いことで認めているし、失った辛さも認めたうえでの「君のせい」なんじゃないかと思いましたね。

 

 湯浅は今どこで何をしているのだろうか。湯浅にとっては脱退の問題はまだ「マテリアルな」問題なのか、それとも既に対象化されて生きる上での何か別の意味を持ち始めているのか。10年来のファンとしてはどちらであってほしいのかがもうよく分からない。「マテリアルな」方が、考え方を変えればそれはまだ可能性に満ちているということ。まかり間違って湯浅復帰とかになるんじゃないかみたいなことを考えられずにはいられない。

 これはリスナーそれぞれの意見があると思うが、僕は究極的には湯浅復帰が最高の「パラレルワールド」だと思っている。3人になった時点で以前のベボベからすれば異常な「パラレルワールド」なわけです。それがもし湯浅復帰となればもうさらに別のパラレルワールドです。相当カオスな状況になるわけですが、それをさらにエンターテイメントに昇華する力をベボベは絶対に持っているはずです。むしろどんな「パラレルワールド」でも、どんな問題でも最高の音楽に変えてしまうベボベであってほしい。変化を続けることに価値を見出してきたベボベの今後にも期待が高まるばかりだ。