あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

Darling

 今回はすっと本題へ。小出が何度か言っていた「青春を対象化出来た」という言葉はすなわち「苦い青春も甘い青春も、今現在新しい意味を持って自分の中で躍動している」みたいなことなんじゃないかと思った。で、これはそういう曲。

 中学高校のいわゆる青春時代にやっていたことって何の意味があるんだって思ったことは誰しもあると思います。ド陰キャラもウルトラリア充もマジなヤンキーもマジメちゃんも誰でも。体育祭とか文化祭とかはもちろんだし勉強とか部活とかクラス内の振る舞いとか。元々は部活は部活のための部活で、それ以上でも以下でもないはず。でも時間が経てばそこには何か別の意味が与えられて、青春時代の行いが今の自分を構成するひとつの比喩のようになるみたいなことってあると思う。だから小出の言う「時間は神様」なんですね。

大人になってく そのうちに閉じた橋向こうの

遠い日と遠い瞬間とつながる

ああ、君のせいで何時でも 何時までも

 なんて風に、断絶されていたと思っていた過去のある一点と現在がつながってくるものですね。ここでの「君」やタイトルの「Darling」とは時間という神様のことでしょう。

Darling 強い光 時の女神

マテリアルな僕を琥珀色のリボンで撫ででゆく

あの日のように 一秒で

 いやそもそも意味って何だって感じがあるのでここの歌詞で僕の解釈をはっきりさせたい。「マテリアルな僕」とはただその瞬間のルールに支配された自分、普遍的な意味を持たない自分ということ。materialとは「物質的な、具体的な」という意味。さっきの部活の件と言いたいことは同じだが、例えば甲子園予選。実際に甲子園に出てスカウトの目に留まるようなプレーでもすれば違うだろうが、たった予選1回勝てるかどうかのチームがキツい練習をするのに何の意味があるのか。こう考えるとき僕たちは「野球」や「甲子園」や「部活」といったものをメタな視点で捉えているわけです。実際にはたった1試合でも勝つことに価値があるという甲子園予選におけるルールや価値観や前提の下、練習に励むわけです。しかしそれは甲子園と無関係な僕らには影響を及ぼさないルールです。甲子園と無関係な僕らにはそれぞれ生きる社会に存在するそれぞれのルール(我々大人にとってその多くはお金と健康と他者の目)があり、甲子園という狭い範囲にしか影響しないルールによって生まれる経験の多くは、別の社会のルールで生きる僕らには無意味なわけです。甲子園予選で1回勝ったことそれ自体を称賛してくれる社会はほぼ無いでしょう。

 これが僕が上で述べた「部活は部活のための部活で、それ以上でも以下でもない」ということの意味です。ただその瞬間その範囲でのみ適用されるルールの下で行動した経験は、そこだけだったら具体的な(マテリアルな)意味を持つが、他のルールが適用される範囲に出たときにも普遍的に同じ意味を持つということはない。ずっと部活で喩えてきたが、それ以外のどんな経験も同じでしょう。特に青春時代においては学校という限定的かつ強力なルール適用の枠組みがあるため、その傾向が強いと思われる。無自覚なクソバカが「高校の勉強なんて社会に出たら何の役にも立たない」みたいなことを無駄にデカい声で言いたがるのはそのためかと。で、まあそのルールのことを一般的にはイデオロギーと呼ぶわけですが、イデオロギーという言葉を使うと話が別の所に引っ張られそうなので控えた。

 「マテリアルな僕」とはそういうものです。そんな「マテリアルな僕」ですら、「時の女神」は「琥珀色のリボンで撫で」るようにルールの柵を飛び越えて別の意味を与えてくれるわけです。甲子園予選で1勝しか出来ずとも、仲間と部活やった経験は実在し、その仲間との繋がりが大人になった現在の自分にも別の意味で通用するような。これが「マテリアルな」ままである限り青春は現在進行形です。そして時間が経って新たな意味が与えられたとき、それを「対象化できた」と言えるのではないだろうか。

 

 今回小出はこのアルバム光源で自身の青春を対象化できたわけだが、この対象化って別に良いことばかりでもないというのも事実。それは過去の無意味が時間を経過して意味を持つというのに皮肉めいた感覚を得てしまうため。僕の好きなヴィム・ヴェンダースというドイツの映画監督の作品で『誰のせいでもない』(2015)という映画があるのだが、ここで撮られている映像で感じられることはその皮肉めいた感覚に通じる。

 不慮の事故で幼い少年を死なせてしまった小説家が、その苦悩ゆえに自身の作品に深みが出て世間にも評価され、後に成功者としての人生を歩めたという物語。これもまさに事故という過去を対象化して現在を生きた結果でしょう。でもじゃあその少年の家族は?過去に取り残された者にとって、その過去を対象化されてしまうのは耐え難いものであるはず。自分にとってはまだその渦中にいるのに、他人からはそれを生きるための道具に使われてしまうわけだから。(実際には『誰のせいでもない』ではそれは表のテーマで、ヴェンダースはそのパッケージを使って自身の映画表現についての考え方を表現していると思われる。僕は最近この映画で割とな評論書いたくらいだからテキトーに纏めてしまうのが少し残念だが、ベボベから話が逸れるのでカット。)

 さて、ベボベにとって現在直面している問題はもちろんギター湯浅が欠けたことでしょう。メンバーの脱退すらも「エンターテイメントとして昇華していく」のはかなり厳しいものです。4人時代のベボベに取り残されたファン、そして湯浅本人にとっては。しかし時間という神様はそれすらも対象化させて、今現在における意味を与えてしまうわけで。

 今までは対象化しても平気な問題が多かったのだろうと思う。LOVE&POPまでのやりたいことが出来ていないフラストレーションとか1度目の武道館の不完全燃焼とか。ただ今回の問題をエンターテイメントにすることには大きな痛みを伴うわけです。湯浅がもたらしたその痛みが、ベボベに対してバンドによる音楽表現というものや、Base Ball Bearというバンドの本当の意味を意識させたのでしょう。『すべては君のせいで』のMVがあのようなメタな視点を持った映像になっているのもそのためでしょう。(『すべては君のせいで』の記事参照)

 『すべては君のせいで』の記事のとき、「君」というのはBase Ball Bear自体という解釈を述べました。ベボベという生命体の在り様を表現した曲だと。それは間違っていないし正解だと思っている。結果的にはそういうことなんです。しかしそこで無視してはならないのが時間という神様の存在。色々なものに意味を与えてしまう。だから「良くも悪くも」時間は神様なんですね。

 

 小出がヴェンダースの映画を観ていたかは分からないけど、ヴェンダースが「Every Thing Will Be Fine」(『誰のせいでもない』の原題)と言って過去に新しい意味が与えられることを肯定したのに対し、小出は「すべては君のせいで」と言って君=時間のもつ逆らえない力を歌ったわけですね。湯浅がベボベにもたらした良いことは良いことで認めているし、失った辛さも認めたうえでの「君のせい」なんじゃないかと思いましたね。

 

 湯浅は今どこで何をしているのだろうか。湯浅にとっては脱退の問題はまだ「マテリアルな」問題なのか、それとも既に対象化されて生きる上での何か別の意味を持ち始めているのか。10年来のファンとしてはどちらであってほしいのかがもうよく分からない。「マテリアルな」方が、考え方を変えればそれはまだ可能性に満ちているということ。まかり間違って湯浅復帰とかになるんじゃないかみたいなことを考えられずにはいられない。

 これはリスナーそれぞれの意見があると思うが、僕は究極的には湯浅復帰が最高の「パラレルワールド」だと思っている。3人になった時点で以前のベボベからすれば異常な「パラレルワールド」なわけです。それがもし湯浅復帰となればもうさらに別のパラレルワールドです。相当カオスな状況になるわけですが、それをさらにエンターテイメントに昇華する力をベボベは絶対に持っているはずです。むしろどんな「パラレルワールド」でも、どんな問題でも最高の音楽に変えてしまうベボベであってほしい。変化を続けることに価値を見出してきたベボベの今後にも期待が高まるばかりだ。