あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

美しいのさ

 1か月ほど前に今年一の泥酔をしまして、12時間ほど吐き続け申しました。アルコールはめちゃくちゃ弱いというわけではなく、平均より少し弱いくらいなのかと思うんですけど。それでちょうどトリキの金麦(大)1杯ごとに酔いの段階が上がっていくことを学びましたね。2杯目で既に丁度良くテンションが上がり、3杯目で話のオチを安易に下ネタに繋げるようになり、4杯目の途中で嘆きだし、4杯目を飲みきる頃には具合がかなり悪くなってたと思います。ちなみに私はビール系以外はほとんど口にしない人間だって昨日から言ってるでしょ。

 さて、暴力的に無理矢理な繋げ方をしますけど、この曲の理解にも第1段階と第2段階があるのかなと思いました。その境界は2度目のサビ終盤のこの部分。

出来るだけそばにいたいよ

そう言って、ちょっと離れて歩く

 そこまでは第1段階「弱点is美しいのさ」パート。この部分以降は第2段階「その美しさとどう付き合うか」パート。そしてここでは第2段階を表現するための第1段階と考えています。(注:後半でこのあたり撤回してます。)今回の記事はその段階に分けて考えていきます。

 

 まずは第1段階ですが、弱点を愛してしまう心理って何なんでしょうね。他者に対しても自分に対しても物に対してもだけれど。あともちろん音楽を含むアート作品に対しても。コミュ力ウルトラMAXでインスタ映えまくりみたいな人間より闇が深そうな人の方に魅力を感じたり、女の人と会話するのが満員電車の次に苦手な自分に困るのは困るんだけどそんな自分が嫌いじゃない心理だったり、所々塗装が剥げて打痕が痛々しいギターにハンパねえ愛くるしさを覚えたり、粗削りなインディーズやメジャーデビュー直後時代の作品を好きになったり。

 この心理僕は思うに、全ての価値観は「自分と相手の関係」の中に生まれるからというのが理由の一つなのではないかと思います。対象を見据える主体はどこまでいっても紛れもなく自分で、どんなに斜に構えてもどんなに俯瞰してもどんなに客観的になったつもりでも、客観的に見ていると思いこんでいる主観でしかないわけです。いい年こいて主観だけにどっぷり浸かっている人間が一番絶望的ですけど、完全な客観である神の視点を得たかのように斜に構えた冷静分析系オタクもまたキツイもんです。

 つまり人間は人や物に対する好き嫌いなどを考えるとき、「対象の能力・才能・容姿等を数値化して合計何点か」みたいな判断方法は採っていないわけです。それは神の視点による判断方法です。そうではなくて、「対象を好きになる自分」と「自分に好かれているその対象」とのバランス感が重要なんだと思います。そしてそのとき、対象の弱点や痛みについては自分の想像力が最も多くはたらくスペースなのかなと。弱点のない対象には、自分の想像力をはたらかせる余白が存在しないわけです。つまりそんな完全無欠の対象と共存しているとき、自分の存在は無になるんですね。ひとつ前の『こぼさないでShadow』の記事でも書いたんですが、社会的存在としての人間には「自己実現」という欲求があります。ここでは「自分の意志・思考・意識などを持つこと」みたいな感じになるんですかね。例えばギターについた沢山の打痕からそのギターと過ごした時間を想起するみたいなことですね。んー例を挙げるとなんか薄くなる感じがしてしまうけど。でもそのようなことを想起する、想像することは、人間が自分の存在を認めるために必要なことなのかと。

美しいのさ 何よりも 

そう言って やっぱ違うかってなる

 って言っておりますけれども。主観的な自分から弱点が魅力的に見えたり、ちょっと俯瞰して客観的な視点から「やっぱ違うかってな」ったりするってことかと。そういった弱点はもちろん「美しいのさ」と感じられるものですけど、でもやっぱり弱点は弱点なんですね。その2つの「視座」(アルバムC2全体を通してのテーマです)を行ったり来たりして人間生きているんですね。まあでも結局どんなに俯瞰していても最後は自分の視点で生きるわけですけど。繰り返しですが俯瞰だって結局自分ですから。

 そんなわけで、自分の想像力の躍動を求めて、人間は弱点を美しいと感じるのだと思います。しかし、一つここまでの話には重大な欠落があります。それは、もうどう考えてもまるで美しいとは1ミリも感じられないような種類の弱点も世の中には多いということです。例えばただただ傍若無人なだけの態度だったり、どう想像を広げて聴いたっていっこも面白いと思えない上に単純に演奏が下手なバンドとか。例えばですよ例えば。For example.そんな種類の弱点と区別して、もしくは美しいと感じていた弱点が本当にどうしようもない弱点と化さないようにして、弱点の美しさとどう付き合うかを表現しているのが第2段階です。(ここまでで1900字やっちゃって飽きてきた。ここから書いている日付が2週間ほど空きます。)

 

 で、後半を書こうと思って前半読み返してみて思ったんですけれども、この曲第1段階第2段階とかって分けるのあんまり上手くないですね。この記事の文章の導入部分から繋げるために(にしても無理矢理な繋げ方だけど)第1段階第2段階みたいな構成にしようと思ったんですけど、やっぱり無理ありますわ。ということでやめます。

 「弱点の美しさとどう付き合うかを表現しているのが第2段階」なんて面白みのないこと書きましたけど、まあその答えとして書こうとしていたことだけ書くならば、

出来るだけそばにいたいよ

そう言って、ちょっと離れて歩く

ってとこの解釈ですかね。上にも書いたんですけど「主観どっぷり」も「勘違いした客観の冷静分析系」も、どちらにハマりすぎても嫌ですね。そこで小出は「ちょっと離れて歩く」と表現したのではないでしょうか。「出来るだけそばに」は行きます。でも結局それは自分とは違う相手のことですし、全てを理解したつもりになって接近しすぎるのは結局遠く離れるのと同じようなもので、相手に対する想像力をはたらかせることは難しくなるのではと思います。そのために、「ちょっと離れて歩く」んですね。

 さらにもう1つ撤回。この「第2段階とはじめ呼んでいた部分」を表現するための曲ということを言っていたんですけれども、そうではないですね。これは完全に否定します。じゃあ初めの方の文章書き直せよって感じですけど、それは単純に面倒くさい。

 「弱点の美しさとどう付き合うか」がメインではなく、「弱点の美しさに対してどう考えるかという過程にある様々な視座」を描いた曲だと思います。特によく分かるのがラスサビ前からラスサビ頭の部分。

同じ景色を見て

美しいなぁって思う

それこそが美しいなぁって

テレビ見て言う君が

美しいのさ 何よりも

 目まぐるしく視座が動き回りましたね。まずは「同じ景色を見て美しいなぁって思う」2人の視座。からの、テレビ見ながら「それこそが美しいなぁ」って言う「君」の視座。からの、その姿を「美しいのさ 何よりも」と思う自分の視座。そんな風に様々な視座が交錯しながら世の中出来上がってるんですね。そんな様々な視座を明らかにするための曲なんだと思います。

 

 てなわけで、マジか2900字。よう書きますわ。暇だからしゃあない。

 でもこれを書いている僕自身の視座はどんなものなんでしょうか。もし主観どっぷりだったら歌詞で描かれている景色をそのまま受け取るのみじゃないだろうか。神の視点を得たかのような冷静分析系オタクだったら(「だったら」とは言いつつも、意識してないと僕はわりとこの節あります。単純に言えば斜に構えてカッコつけがち。)結局どれも自分の視点だということを見落として、「そう言ってやっぱ違うかってなる」のあたりの解釈とかがショボくなったんじゃないだろうか。

 じゃあ僕の視点is何者なんですか、っていうか客観ってヤツも主観が集まってできているにすぎなくないですか、それって面積のないはずの点を一列に並べたらなぜか線が出来て、幅のないはずの直線を集めたらなぜか面になって、高さのないはずの面を重ねたらなぜか立体になるみたいなことですか、そういえば無限大×無限小は1ですけどそれは関係ないですかね、みたいなことばっかり考えて生きていたら精神が爆散しそうなんでBase Ball Bearの『美しいのさ』という曲を「美しいなぁって思」いました。曲を通して様々な視座を観察したり疑似体験したりできるので。でもそうしたら曲の中の世界を見ている僕の視点は、曲の中の世界からしたら神の視点みたいなヤツですかね。そしたらそこでは完全な客観ですけど、そもそも客観ってヤツも主観が集まってできているにすぎなくないですか、それって……