あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

曖してる

 この曲初めて聴いたときは新たなダンス湯浅将平曲だと思ったんですけどね。

 とか言ってしれっと書き始めようとしているけど3か月ぶりに書くって結構だ。この3か月でシューゲイザーバンドに加入して何回かライブをやって脱退してとかをしていて、ちょっとワチャワチャしていたのですけれども。

 『曖してる』の考察、カッティング&スラップベースというサウンド的な特徴が強い曲だからサウンド面の考察にしようかなと思っていたのだけど、となるとルーツを結構調べないといけなくて相当難しいから他に上手いことやりようがあればなあと思って全然進まなかったから久しぶりになってる感じですね。あと僕はこの曲、堀之内ドラムの気持ちいいスネアの音と、サビでの湯浅ギターのトレモロが好きです。まあ結局これまで通り社会学的というか哲学的というか文学的というか心理学的というか、なんとも言えない僕の変な側面からの考察をすることにしたわけですけど。久しぶりに書くからこの段落もすでに一文が長すぎて読みづらい。

 別に誰に言われてやってるわけでもないから好きな時に好きに書いたら良いのだけど、とはいっても本当に純粋な自己満のオナニー作文でもないわけですよね、ブログという形で公開している時点で。驚くべきことに検索エンジンとかからアクセスしている人間さんがいてくれているようで、「別にだから何ってわけではないけど」とか言っても、やっぱりたとえ批判的な見方であっても少なからず受け手がいてくれることは表現のやりがいとまではいかなくても前提くらいにはなるんじゃないですかね。

 とかまあ面倒なこと書きまして、『曖してる』ってこういうことですよねっていう。芸術表現って例えば単なる趣味嗜好の傾向を提示するTwitterのプロフィールみたいなものじゃないと思うし、でもそういう側面もあっていいと思うわけですね。よく言われる承認欲求だって表現のうちの立派な要素だし、それ自体を否定する人の意見はちょっと理解が難しいですね。でももちろん極端に承認欲求が前面に出すぎているのを見るとキツイと思います。しかしそういう人の表現も承認欲求だけで構成されているわけではないわけで、でもどうしてもその点に目がついてしまうということはあります。

 

 とまあ一つ上の段落で承認欲求という言葉が出てきてから3度も逆説の接続語を使いましたけれども、それでじゃあ結局何なのってところは僕には言い切れないです。こういうのを哲学では弁証法っていいますよね。ある命題に対してその否定をぶつけて両者を検討することで、より次元の高い命題を獲得できるってヤツですけれども。だから大学受験の英文解釈のようにbutやhoweverの後だけを見れば結論が得られるわけではなく、その過程の比較検討にこそ意味があるんだというのが『曖してる』という意味じゃないでしょうか。

 ここまでベボベのべの字も出てこない文章を書いてしまったけど、このアルバム『C2』、まさに弁証法で構成されていると思います。1曲目の『「それって、for 誰?」 part. 1』は商業的なコンテンツに対する批判という側面が強いものでした。でも2曲目『こぼさないでShadow』ではある意味で商業的なものも含め、後塗りのポップも肯定しました。このように相反するものを認めるというのは弁証法の基本じゃないかと思います。でも弁証法によって得られる新たな命題にもさらなる否定はぶつけられるものです。その繰り返しこそが弁証法なんですが、つまり結論なんてものは本当は出ないはずなんですね。でもあまりに結論が出なさすぎるとコミュニケーションが不可欠な世の中面倒くさいことこの上ないので、暫定的に数々の言語を用いて「喜び」とか「悲しみ」とかって言葉で表現してます。でもずっと暫定的なのも困るから、その先にある真実みたいなものにより近づくために芸術というものがあるんじゃないでしょうかね。

 理屈も魔法も禁止にして 漠然を抱きしめる

 言うてますけれども、言葉という「理屈」や「魔法」ではカバーしきれない真理のようなものは「漠然」としたものだと思います。そこを追いかけるということこそが弁証法であり、小出が言うには「終わらないPOV」なんじゃないでしょうか。

 最後に苦し紛れの歌詞引用をしたので、これで『曖してる』の考察として成立したことにしましょう。