あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

文化祭の夜

ブログに手を付けずに100日が経過してしまったのでここらでちょっと書いとこうと思ったんだよ。1か月ほど前、(LIKE A)の記事にこのブログ初めてコメントを貰ったんだよ。ありがとうございなんだよ。

 100日前の自分とは全然違う環境におるよね僕は。授業のない大学生4年(5年(4年))生という立場から社会人1年目のド下っ端という立場になり、実家から遠くはないけど一人暮らしを開始し、メガネをやめてコンタクトにし。違う環境にいれば違う悩みを抱えるようになるような、でも思考の根っこの部分は同じだったりとか。ビールが好きなのは変わらないんでビールを飲みながら書いているのだけど、職場の健康診断で尿酸値がギリギリであることを突き付けられたので飲んでるのがプリン体オフのやつに変化はしたけども。尿酸値以外はド健康なんだけどね~相変わらずメンタルがアレな点を除いては。特に社会人になってから睡眠がさらにヘタクソになったよね。朝まで通しで寝らんねえですぅ。

 みたいなこともあるけど、作品解釈の傾向にその変化は出てくるんでしょうかね。伏線回収フェチの僕のことだからきっと関係あるよ。そんな久しぶりの作品解釈は『文化祭の夜』。

 

 ベボベ的にも小出的にも、バンド結成から十数年経ってからやっと文化祭についての曲を作るというのはなかなか面白いもんじゃん。かつての青春系の感じで文化祭についての曲を作っていたらもっと主観的で感情的な曲になってただろうけど、この曲に見られるような、小出が表現したかった「趣」は無かったでしょうね。ベボベもこのときアルバム『二十九歳』リリースし終わってを三十一歳だったし、三十路の壁を超えるときはやっぱり人は何かを考えるもんなんだろうか。弱冠23歳のワタクシめが言うことじゃねえかもですけども。まあでも僕も大学生から社会人にクソ変身を遂げて環境の変化とともに色んなメンヘリネーション(最近の僕の流行語大賞で、気分が病む状態のことを指します)を巻き起こしたのと同じように、29歳と31歳の間には東京ドームにある長嶋さんのセコムの看板30個分のでかいベルリンの壁があるんでしょうね。

 基本的に人間変わらないでいたいもんじゃないすか。僕もせっかく芸術学科でお勉強してきて芸術を通して真実とかみたいな「気持ちが悪くて気持ちがいい」ヤツを追及することに価値を見出してきたけれども、社会人的には今あるものの中で流れに乗ってできる限りのことを頑張って社会的に認められるべきだという「気持ちが良すぎて気持ち悪い」ヤツを手にしようとすることは大事なことだなって。必ずしも前者が善で後者が悪というワケではなくて、後者も後者で大いに認めるべきものであることも確かで、でも今それを素直に受け入れられるようにはなれないという状況だけは確かに言えるっていうのが、今現在の僕のリアルな状況っすわ。AとCのどちらも十分に理解してはいるけど、だからといって決めきれるわけでもなく「AでもないCでもない、その狭間でモヤモヤしたBな生徒のためのクラス、B組の講師Base Ball Bearボーカルギターの小出祐介です」って感じで、さらにそのBな状況を十分に理解しているからこそ表現できるものがあったんじゃないかなって思ったよね。その一つが文化祭という世界観をメタに捉えることで表現できるその「趣」なんでございましょうね。

 

 歌詞を見ても「あのとき」「あの夜空」「あの夜風」「あの気持ちカミングバック」みたいに、三十一歳現在の小出がその世界観を思い出すという言葉遣いで、だからこその客観視と「文化祭の夜」という現象にある趣の表現でしょうね。

 

明日は何もないっていうのに

 

買い出し行かなくっていいのに

 

 みたいに、そこには三十一歳的視点では間違いだけど当時はそれすら重要なイベントだった、っていうことを理解することが「趣」ってものを感じるときの思考回路の流れなんじゃないのかなって。十七歳当時の感情的な点だけを表現するでもなく、三十一歳現在の理論的な点だけを表現するでもなく、「その両者を認めたうえで今の自分はこうです」っていうベボベ流のリアリティを感じることに成功しましょうかね。「我思う、故に我在り」言うてますけれども。

 

 僕たちB組の生徒にはそんな「趣」を存分に味わえる環境が整っているんだ。B組サイコー、サンキューBase Ball Bear。