あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

kodoku no synthesizer

 入院してるのにポケットwi-fiスマホが速度制限かかってYouTubeも見れずに暇なのでベボベ鑑賞ブログ書きますぅ。曲はアルバム《新呼吸》より《kodoku no synthesizer》です。

 


 1年ぶりくらいになってるけど、書くの途中でやめちゃう理由って無理にアルバム曲順で考察しようとするからだと今更ながら気づきまして。ので、その時その時で書き進められそうな曲を気ままに考察して、アルバム曲全部書ききったらまとめてレビューという流れにすることにしましたよ。その方が時期ごとによる僕の思考回路のトレンドも反映されて、それをアルバムまとめて再構成すればまた新たな発見があってナイスだなと。

 


 ちなみに入院中だと書きましたが、1週間前に肺気胸だと診断されて入院して安静にしていたものの、症状が悪くて4日後に手術を控えているという状況です。まあ手術すれば問題なく治るんですけれども。ただゴールデンウィーク丸つぶれだけど16連休で社会と切り離された生活をしてると、普段の仕事中心の生活マジあたおかですわって気持ちになって、社会復帰するの普通に嫌になりますね。そんな近況で書いてます。病室なのでスマホで。

 


  《kodoku no synthesizer》ですけれども、テーマとなっている「孤独」について、2009年発売3rdアルバム《(WHAT IS THE)LOVE & POP?》から2010年発売の3.5thアルバムを経て2011年発売4thアルバム《新呼吸》まで、継続して小出によって研究された一つの到達点のように感じますね。もちろん小出の中の「孤独」という観念は、3rd以前からもずっと作品中に組み込まれていたものでしょうけど。

 


 それ以前のベボベの「孤独」についての曲でいうと、2ndの最後の曲《気付いてほしい》とかですかね。このちょっとはみ出した所にいる自分の色々な思いを誰かに「気付いてほしい」という、孤独といってもかなり手元に近い感情のことを表現した曲ですよね。なんでしょうね、「手元に近い」という言い回しがうまく伝わるか微妙ですけど、感情に素直な表現だと言いたいわけです。つまり「孤独」というものを何か概念や体系全体ではなくて、〈環境〉だと捉えた上で、その孤独という〈環境〉の中にある自己の「気付いてほしい」という感情を曲にしているわけです。そういう意味で、その自己から見て「手元に近い」わけです。

 といった感じで、《気付いてほしい》のような「孤独」に対しての原初の思いがありーの、そこから《Stairway Generation》をはじめとする3rdアルバムで「孤独」の本格的な研究が行われる流れだと思ってます。

 


 ただまあアルバム《新呼吸》は、最終的にはポジティブなアルバムです。そんな12曲のうちキーポイントとなる10曲目がこんなにも虚しいのかと。アルバム《新呼吸》は1日の時刻が各曲に振り当てられていて、《kodoku no synthesizer》は26時です。幽霊の出る丑三つ時と言われる時間ですけど、「孤独」というのは生きていようが死んでいようが何処にでもあるものなんですかね。

壁みたいな孤独 青空みたいな孤独

沼みたいな孤独 恋人みたいな孤独

って言ってますけど、現世でも孤独は至る所にあって、恋人にすら孤独はあるものです。冷蔵庫や炊飯器のようにきちんと役割を果たして周りに認めてもらえていたとしても、究極的には「気付いてほしい」と思う気持ちが全て誰かに伝わることはなくて、コミュニケーションというのは永遠に不完全でしかないんですね。

 


 「誰かに認められること」と「孤独から解放されること」は全く別物だということだと思います。新呼吸リリース前後に小出がTwitterかインタビューか何かでこの曲の着想として「シンセサイザーで出音の周波数を上げ続けるとその音は超音波となって次第にヒトの耳には聞こえなくなるけど、確かにその音は存在している」みたいなことを言っていた記憶があります。これも同じことで、超音波はいくら強く空気を振動させても人間の耳には認めてもらえないんですよね。それだけじゃなく途中からスピーカーとかヘッドホンとかにも認めてもらえなくなるし。ってことは自分の様々な思いも同じで、どんなに頑張って伝えようとしても他者には絶対に伝わらない種類の真空みたいな部分が人間にはあるってことだと思います。

 


 真に孤独から解放されるには、人間の認知能力や表現能力では到底敵いませんね。そんな「孤独」という概念そのものを表現した曲だと思っています。孤独に対しての自己とか、その感情ではなくて、全てに通じる体系としての「孤独」があるという曲ですね。でもだからこそ孤独によって自分が絶望させられるわけでもなく、僕はむしろ「孤独を通じて人と人は繋がれる」という方向に進んで、次の《yoakemae》に続くんだなと思いました。パラドキシカルですけど。以上。