あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

「それって、for 誰?」 part. 1

 アルバム『C2』の考察に入りましょうかね。アルバム全体を通して歌詞がわりと尖ったことを言っていて直接的だと思うんで、そこを解釈としての言葉に置き換えて言語化してしまうとめちゃくちゃ薄っぺらく見えてしまうのではないかと思っとります。ギターのサウンドが優しい感じなだけに、鋭い歌詞はより際立っていると思います。ですのでアルバム『光源』のときのような「楽曲を通して小出・ベボベが何を伝えたいか」よりも、「伝えたいことを小出・ベボベがどのように表現しているか」に注目していきたいと思っています。って言って伝わりますかね。つまり歌詞の言葉遊びやサウンド面などの曲のガワのことなんですけれども。まあその「伝えたいこと」、いわば曲の核心にも勿論触れては行きますけれども。あとはベボベがその核心に至ろうとするまでの社会や音楽シーンの状況についても僕なりの考えをうだうだ書いてもいいかとも思っていますけれども。

 といったことを書くことによって僕は僕自身がこれから書き始める考察の指針を定めているんですね。アルバム1曲目の『「それって、for 誰?」 part. 1』もそういう役割があると思いました。『光源』のときは全体を通して聴くことで、1曲目の『すべては君のせいで』が分かってきた感じでした。それに対して『C2』は「それって、for 誰?」という結論を先に持ってきて、それに続く曲の解釈の指針がリスナーに与えられるわけです。ただその結論というのはいくつもあるうちの1つの結論で、アルバムのテーマである「視点・視座(see)」に最も迫る一番抽象的な結論は『カシカ』かと思いますけども。

 

 ルールとかマナーとかって基本的によっぽどでなければ守っていた方が周りに迷惑かけないし、自分自身も穏やかに生きられると思うんですよ。ただ、それらに関して思考停止して、公共の福祉という目的とマナーという手段が入れ替わってしまっている人たちって関わっていてしんどくないですか。「マニュアルはマニュアルなんだから、マナーはマナーなんだから効率が悪くても守らないやつは昇進させない。」みたいな。「A=Bである。なぜならB=Aだからだ。」みたいな。そこには安定した自分の立場を守るために良い変化をも排斥する、効率が悪くてキモいオッサンみたいな性質があると思います。そういうことやってる限り当人たちは良い気分なんでしょう。外から見てる側からすれば気持ち悪いだけですけど。所謂「気持ちが良すぎて気持ち悪い」というヤツ。『Darling』のときに言及した「ルール適用の柵」みたいなものを過度に高く設定するのって、カーストのドてっぺんのクソつまんない文化祭ノリのウェイみたいな鬱陶しさを僕は感じます。(こういうこと書くとどうしても政治的な思想のニュアンスが含まれていると思われそうで嫌なんですが、別にその辺に関して何も言いたいことはないので、読まれる方がどんな思想を持っていても楽曲の考察としてまともに読めるものになるはずです。とにかくそこに焦点が当たってちゃんと伝わらないのは残念なんで、こんなことを挟みました。)

 「で、それって、for 誰?」って言えますよね。目的を失った手段って。もしくは目的のすり替わった(公共の福祉→お偉いさんの立場の安定、など)手段って。そしてこの曲でテーマとして挙げている現象は、ベボベから見た今の日本の音楽シーンにおけるこの「目的がすり替えられた手段」問題でしょう。小出がよく言う「バンドマンのビジネスキノコ」問題とかわりと分かりやすいですよね。いやまあ別に髪型には元々目的なんてものはないけども。あとは昨今の思考停止したかのような四つ打ちブームに対する不信感とか。

 ベボベは今のロキノン界隈に四つ打ちを持ち込んだバンドの1つであることは確かです。しかし、今やバンド音楽において四つ打ちやビジネスキノコはYouTubeの再生数を伸ばすための売り物と化してしまっています。そうじゃないだろと。「で、それって、for 誰?」と。ベボベは天然のキノコで天然の四つ打ちバンドで、それが自分たちらしさだからそうしているんです。自分たちらしさを確立するための手段としての四つ打ちです。ただ売れるからというだけで思考停止した四つ打ちバンドたちは、言わば養殖モノだと言いたい。YouTubeの再生数というエサに群がって四つ打ちさせられてるんですよ。こう言って僕がなんとなくイメージしてるバンドたちが本当はどんな信念をもってやってるかは知らないんで、むやみに否定はしませんけども。

 本来の音楽、というか芸術ってそういった再生数や人気みたいなものに終始してしまうようになったら未来はないと思うんですね。端くれといえども芸術を専攻する人間として。重要な要素ではあると思います、しっかり売れるというのは。しかしそれだけで始まってそれだけで終わってる中身のない娯楽音楽は一発屋芸人みたいなもんです。そこに一石を投じたいというベボベの意志表明の曲だと思いました。

 

大喜利みたいなEveryday 発信したくて仕方ない

答えがいつも先に立って問題がなぁなぁなぁになって

 

体操着みたいなEveryone 集めた井戸は騒

選ばされた答え身に纏ってドッチータッチーな状況

 

 まさにですね。「こうすれば売れる」という範囲が出来上がってしまって、表現者側もその養殖用の囲いに尻尾振って飛び込んで、精一杯大喜利してるような状況を描いてますね。(この文の比喩、養殖だから水産物なのか、尻尾振ってるから犬なのか、わけわかんなくてウケますね。)で、その結果出来上がる作品も「体操着みたい」に似通ったものに収束していくわけです。その作品という答えは彼らも知らず知らずのうちに売れ線という見えない力に「選ばされ」ているんです。「ドッチータッチー」は四つ打ちのリズムの擬音と、選ばされたもので全身を固めて結局何も自分の言葉を紡げていない、自分の意志や立場を何も表明できていない「どっち立ちな状況」をかけているんだと思いました。それを逆に四つ打ちで表現するベボベ、かっけえですよね。

 

『垢がうんとついてる僕たちの うっせぇ!しかない日々こそ』

 

 みたいな日々の一挙手一投足や、「惚れた腫れたの一部始終」こそが自分らしさを持った本当の芸術表現に繋がってくるわけで、売れるために養殖されたコンテンツなんて結局何の意味があんの、「それって、for 誰?」ってことです。

 しかしながら、

 

『こういうこと言っちゃってるこの曲こそfor 誰?』

 

 と言って、偽物であっても既に作られてしまった神話みたいなものに抗う難しさも無視していないということでもあると思います。柵の中でワイワイやらされている芸術に石を投げようと柵の外に出たんですが、出てしまったら出てしまったで誰もいないからそれまた「for 誰?」ってなってしまうんですね。ちなみに柵の外に出るというのは、PVでの電話ボックスから出てさらにカメラのフレームからも出るというところに通じますね。

 ただそれでも、(逆説の逆説で文が分かりにくいね)

 

『こういうこと言っちゃってるこの曲』をfor you

 

 と言って受け取ってくれるリスナーやファンの存在に希望を見出してもいます。それは例えばこの僕のように。(みたいなこと言うのは思い上がりも甚だしいですね。そういった思い上がりは『image club』の歌詞に反するものです。今回は括弧書きのセルフツッコミが多い。グッド・バイ。)