あほキャス日記

Base Ball Bearの考察をしています

こぼさないでShadow

 大学まだ卒業はしてないけどもう授業が全く無く、映画観たりお笑い観たり本読んだり音楽聴いたり曲作ったりしまくっているのですが、それでも余白の時間があまりに多く色々なことを考えすぎて頭おかしくなってきていまして、気づけばもう1か月以上考察記事書いてなくてウケる。最近ハマっているものは安部公房鳥居みゆきです。安部公房はメジャーデビュー前後に小出も読み込んでたらしいですね。鳥居みゆき安部公房を愛読しているようで、小出と鳥居みゆきと二重にキッカケができたので読みました。『箱男』すごく良かった。

 しかしこうも余白が多い生活をしていると考えごとが頭の中で拡散して相当しんどいよね。心境としては『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』な感じですけれども。今読んでいる安部公房の『壁』だけにね。「一人だけの僕が一人だけの僕のこと 見つめている 見つめ合っている」っつって。自己実現と他者からの承認が大ゲンカして脳内ぐちゃぐちゃ。まさに『(WHAT IS THE)LOVE & POP?』っつって。ポップっていうのは毒とか淀みみたいなものあってこそだなとか思うわけですね。めちゃくちゃ美味いし口に馴染むし食べやすいしおふくろの味のする毒みたいな。

 かたや俺は鳥居みゆきのDVDを見て、呟くんすわ

 This Is Pop.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 

 なんて言うておりますけれども。細かいニュアンスというか点と点の関連性の説明を端折りまくってここまで書きました。あ、『This Is Pop』はXTCの名曲です。最近同じ名前のXTCのドキュメンタリーがイギリスで放送されたそうで、日本での放送も話があるとかないとか。楽しみ。ところでこの記事は『こぼさないでShadow』の考察をしようという記事でございまして。今回の解釈はわりと個人的というか、僕はこう思うという種類のものですね。小出の意図ともあながち違ってはいないとは思うんですが。

 

 無理矢理話を繋げるようでアレですけど、さっきのポップっていうのは大衆の思考ありきのものだと思うんですね。多くの人の耳に馴染むというか、ヒットチャート志向とかそういうことではなくてですね、おもしろみのあるというか。そりゃどんな芸術も表現者が居れば受容者がいるわけだし、どんなにカルトなものでも受容者の態度を完全に排除した芸術というのは探すのが難しいでしょうけど。ただ、ポップというのは大衆への意識が強いものだと僕は思います。このとき、ポップというものにチャート志向のような意味付けをしようとすると、表現者の存在意義はどこに見出せるんでしょうか。それが沢山売れたら商品としては優秀だけど、アートとして、例えば人の思考や想像力に訴えかけるようなものは無いように思えてしまうような気がします。そうではなくて、ポップというのは大衆を意識しながらも、それ自体がアートとして素晴らしい価値を持ったものなんだと思います。『こぼさないでShadow』はその素晴らしい価値を示している曲だと思います。

 この曲の歌詞における「シャドウ」「マスカラ」といったメイクというのは、大衆への意識の象徴だと僕は解釈しています。

こぼさないでシャドウ こぼすくらいなら塗りつぶして

君はあの子じゃない 変われるから君はそう君にさ

 『「それって、for 誰?」part.1』の考察で超ざっくり言うと「売れ線への批判」みたいなことを述べたんですけど、それは単にマニアックにしろってことではないということをこの曲は伝えているように思います。「シャドウ」はいわば大衆から見られるようにするためのガワの表現です。アイシャドウはたいてい女性用のメイクですけど、この歌詞においては女性に限らずあらゆる人間の、または表現者たちのポップ成分みたいなものを表していると考えられます。「売れ線批判」っつったけど、そのポップ成分を全部なくせばいいのかっていうとそれは全然違うっていう。

 じゃあそれはなぜなのか。この記事の初めのあたりで「自己実現と他者からの承認」なんてことを書いたけど、この2つは生理的欲求の次にある、社会的な存在としての人間の欲求というか、願いなのかなと最近思います。そして両方のバランス感を求めて人間は悩みながら生きたり死んだりするのかなと。カッコつけた言い方すると、「人」から「人間」になろうともがくんですかね。人の間(小出の詩集は『間の人』ですね)と書いて「人間」なんで、単体ではなくて他者と繋がってこそ本当の「人間」だろうっつって。(この段落の話、鳥居みゆきNHKの番組でどこかの大学の社会学の教授と話してた内容です。伏線回収が抜群に上手いね俺。)

 で、だからシャドウを全部落とす=ポップ成分の排除というのは相手との間にある壁を1枚破ることができる行為かと思いきや、他者からの承認を諦める、他者との繋がりを断絶する致死的行為ですね。それにどんなに自分と相手との壁が壊されて完全に向き合ったとしても結局は他人、結合して同一の個体になったりなんてできんやろがいっていう。いや下ネタとかじゃなくて。何が下の口は正直やねん。誰が対魔忍や。つって。感度3000倍媚薬なんて言ってふざけておりますけれども。まあでも本当に、安部公房も人間そのものが壁だっつってますし。そして致死的行為と言いましたけど、他者との繋がりが完全に断たれた「人」にあるのはまさに死のみだと思います。死んだら自己実現も何もあったもんじゃないですよね。その意味で「自己実現」と「他者からの承認」は対極のもののようで実は表裏一体の似たもの同士だったりするんじゃないでしょうか。

 さらには「こぼすくらいなら塗りつぶして」です。それが意味するのはポップも突き詰めればそれは立派な自己実現だということだと思います。それこそまさに小出が最も尊敬するバンドのうちの一つ、XTCが最たる例ですね。(マジで伏線回収抜群かよ。お前はいいお芝居か。)

こぼさないでシャドウ 壊すくらいならMakeして

君はあの子じゃない 変われるから君はそう君にさ

 とも言っています。日本語の所謂メイクかと思いきや、作るという意味の「Make」だというこの小出節。そして何より他者と断絶して死ぬ(=「壊す」、「本当の『さようなら』」、「想像しないってこと」など)くらいなら、社会や他者に向けて全てを演じきって(=「塗りつぶして」、「Makeして」)でもポップを味方につけてゆけという。それは決して他者からの承認の代わりに誰かのコピーや偽物になって自分を失ってしまうということでも、魂を大安売りでヤフオクに売り飛ばすということでもなく、それこそが君らしさ(=自己実現)になり得るんだという。

恋の傘を閉じてもそこに心は残っているよ

 素晴らしい歌詞すぎる。「恋」という漢字のね。でもどうしたって自分の心はそこにあるんですね。

 1曲目で「売れ線批判」をした上で、じゃああなたのポップって何よと言われたとき、ベボベの出す答えがこの『こぼさないでShadow』なのではないでしょうか。そんなベボベさん、あなたこそ"This Is Pop"。

 

 そんなところです。途中途中また括弧書きでセルフツッコミしてしまったけど本当に文章全体の組み立てが上手くいって、内容としても今の自分の脳内をしっかり形にできてハンパねえ。あと最後の方でこっそり、僕が最近作った自分の曲の歌詞について考えていることを書いてしまいました。くだらない冗談を挟みつつ上手に伏線を回収することが、自分の満足いく表現に繋がりましたね。これぞまさに、ポップを突き詰めた先の自己実現。"This Is Pop".お後がよろしいようで。

 いやしかし文章じゃなくて、日常の実際の会話でもこう上手いこと相手に認められながら思ってることちゃんと喋れたらなあ。